日本刀の世界 ~日本の様式美~

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【偉人の刀剣】桐野利秋の刀

桐野利秋の刀

戦前、鹿児島の南洲神社参考館に、利秋の佩刀として白柄、朱鞘入り刃長三尺二寸(約九七センチ)、「平安吉」と在銘の大刀が陳列してありました。これは利秋がまだ吉野村で百姓をしていた時分、家財道具を売り払ってまでして、購入したものともいいます。

同じく参考館の陳列刀に、差し表に「相模国清水宗吾源久義 安政三年内辰正月生足日」、裏に「神武主武蔵国人堂塔馬之助源義敬自相鍵」、と長銘の刀がありました。これは上野戦争の前日、朝湯からの帰途、神田三崎町の路上で、彰義隊鈴木隼人ら七名に襲われた時の差料でした。

これで鈴木ほか二名を斬り伏せたが、非常な激戦で、無数の刃こぼれができました。それで桐野の「歯折れの刀」といって有名になりました。

同じく参考館には、金銀造りのサー ベルもありました。中身は明治二年、山形の鶴岡藩主・酒井忠篤が鹿児島に来遊のさい、贈られたもので、刃長二尺四寸五分(約七四・二センチ)、無銘ながら綾小路定利の名刀でした。城山で戦死すると、従僕が未亡人に届けたので、今も桐野家に伝来しています。

なお、桐野が城山で最後まで激闘した刀は、関住和泉守兼定だったとも、会津和泉守兼定だったともいいます。これにはさらに京都で西陣の織物問屋の娘を救った際、贈られたものとの艶話までついているが、信じがたいです。

桐野は征韓論に破れた西郷に殉じて、東京を去るとき、馬で湯島の愛妾・お秋の宅に乗りつけました。門前で形見として、粟田口久国の短刀を与え、そのまま駆け去りました。その短刀は中川宮朝彦親王より拝領だったといいます。桐野は文久二年(一八六二)上京、中川宮付きの衛士になっていました。親王より拝領した可能性はあるが、愛妾との艶話は創作でしょう。

桐野は陸軍少将にまで栄達したので、名刀も求めていました。その一つに、西蓮極めの刀が現存します。いかにも西蓮らしい刀です。金象嵌銘で「虎徹桐野利秋帯上之」、とある刀もかつて拝見しました。これには桐野が江戸の戸塚ケ原で、試し斬りしようとしたところ、かえって取り抑えられました。相手は誰あろう、千葉周作だったといいます。これも創作臭が強いです。

そのほか、法城寺肥後守吉次の刀にも、桐野旧蔵と称するものがあります。佐石藤次郎という青年が西南の役に従事する時、桐野からもらったという肥前忠吉後代の刀も現存します。この刀にも京都時代、浪人に乱暴されている娘を救ってやった謝礼として、娘の父から贈られた、という話がついているといいます。

参考文献:日本刀大百科事典