日本刀の世界 ~日本の様式美~

日本の伝統文化である日本刀の刀工・刀鍛冶、名刀、刀剣書籍など

【偉人の刀剣】松平外記の刀

松平外記の刀

江戸城の西丸御納戸役、三百俵取りの松平忠順の枠で、西丸御書院番松平外記忠寛が、文政六年(一八二三)四月二十二日の夜、同僚に刃傷に及んだ時の刀です。当時の書院番には素行不良のものが多く、下僚に対して嗜虐的行為、つまりいじめが度を越えていました。それに耐えかねた外記は、彼に脇差をぬき、本多伊織・沼間右京・戸田彦之進を即死させ、間部源十郎に重傷、神屋五郎三郎に軽傷を負わせたあと、喉を突いて自殺しました。三十三歳でした。大奥の老女だった外記の伯母が、いち早くその事情を将軍に告げたので、斬られた者の家は断絶となったが、外記の父・頼母に対しては、何のお咎めもありませんでした。

刃傷刀については、平造りの関物で、刃長一尺三寸(約三九・四センチ)という説、無銘で刃長一尺二寸(約三六・四センチ)、鍔・縁頭は鉄、目貫は鳥の色絵、柄鮫は白で、柄糸は黒色、切羽・鍔は銀着せ、鞘は鼠色、下緒は黒糸だったとの説、無銘 の村正で、刃長一尺八寸(約五四・五センチ)とする説などがあります。外記が村正の大脇差を持っていたので、父の頼母が、村正は血を見ねば鞘に納まらぬ、というから、差料にするは無用、と戒めていたが、当日はその村正の鉄拵えを指していったともいうが、刃傷より数日前、刀屋に長脇差を数振り持って来させ、その中から切れそうなのを選び、立って切先が鴨居に当たらないかどうか、確かめたのち買い入れたともいいます。

外記の子孫の語るところによれば、誰の作かは判らないが、菩提寺である深川の霊巌寺に納めました。明治十四年の大火で、同寺が焼失した時、刀傷刀も焼け身となり、屑鉄屋に売り渡されました。

この事件は明治十六年、『名末世千代田松』という外題で、芝居になり大衆に知られるに至りました。それを狙って、正真の虎徹に「松平外記所持」と所持銘を入れた偽物も作られました。

参考文献:日本刀大百科事典