日本刀の世界 ~日本の様式美~

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【偉人の刀剣】堀部父子の刀

堀部父子の刀

赤穂義士堀部弥兵衛金丸と、その婚養子・安兵衛武庸所持の刀です。

1.弥兵衛の刀討ち入り後、細川家にお預け中、同家の堀内伝右衛門に、私は豊後高田の行長と重行の刀を持っている、と話したといいます。これは絶対に信じていいでしょう。

浅野家断絶後、江戸の本所相生町で、按摩を業としながら、吉良邸を窺っている時分、耳くじりの木刀に、「人切ればおれも死なねば成りませぬ そこで御無事な木刀をさす」、と書いたものを指していました。討ち入りの出がけに、家主に与えて去りました。それを市川相延が入手し、生涯これを腰にさしていました。柏延の死後、三代目団十郎の兄弟・和泉屋茶延の所蔵になっていたが、明和九年(一七七二)二月二十九日、江戸の大火のさい焼失したといいます。これも信じてよさそうです。

儒学や書道で知られた細井広沢は、堀部父子と親交がありました。弥兵衛から赤銅の弁をもらいました。義士討ち入り後、それに「堀部弥兵衛遺物」、と彫らせて愛蔵していました。表の図柄は流子とも、水仙ともいうが、判然としません。

安兵衛の妻と自称していた妙海尼は、父が討ち入りに出かける時、私が室内でつかうには槍の柄が長過ぎましょう、と注意したので、柄を短く切り詰めていった、と述べているが、妙海尼そのものがニセ者でした。堀内伝右衛門が義士の富森助右衛門から聞いたところでは、義士たちの間で、長屋のなかで闘うことを考えて、柄は九尺(約二七二・七センチ)ぐらいに縮めるがよい、と話し合っていたといいます。このほうが正しいです。 戦前、弥兵衛所持と称する「兼知」在銘の槍がありました。弥兵衛は泉岳寺に引きあげると、訪ねてきた従兄弟にあたる、京都の医者・寺井玄渓に、この槍をおくり、娘の今後を頼みました。玄渓は槍とともに、娘を親戚の寺井主水に預けました。主水の子孫から貫洞家、さらに大森家へと槍は流れ、明治三十九年、伊藤弥七の手に入ったといいます。しかし、弥兵衛の妻や娘は、奥州二本松の丹羽家に引き取られました。寺井主水の世話になったものではないから、この話は虚説です。

東京国立博物館にも、弥兵衛所持といわれる「文珠包久作」、と在銘の槍があるが、それを裏づける証拠はありません。なお、弥兵衛の差料について、大刀は菊一文字で二尺五寸(約七五・八センチ)、小刀は二尺一寸(約六三・六センチ)とか、大刀は無銘で三尺(約九〇・九センチ)とか、槍でなく薙刀を持っていたとか、諸説紛々であるが、いずれも信用できません。

2.安兵衛の刀

高田馬場の仇討ちの時の刀は、二尺六寸(約七八・八センチ)、濃州寿命の作でした。その時の脇差は「近江守法城寺橋正弘」と在銘、刃長一尺五寸(約四五・五センチ)、身幅一寸五分(約四・五センチ)の豪刀でした。

高田馬場の勇戦を賞して、剣術の師である馬庭念流の樋口十郎右衛門近晴が、備前守行の刀を贈った、という古文書があります。日付が貞享二年(一六八五)であるから、安兵衛はまだ十六歳の少年、宛名も「堀部安兵衛殿」とあるが、その時はまだ堀部家の養子になっていなかったから、この古文書は偽書でなければなりません。

討ち入りの時の差料として、刃長二尺五寸(約七五・八センチ)、重ね三分(約〇・九センチ)余の豪刀で、「和泉守藤原国貞」と初代国貞の在銘、裏に「丁卯秋堀内正春門人 堀部武庸二胴横断」、と金象嵌入りの刀がありました。明治になると、福地桜痴が秘蔵していて、『一刀流成田掛額』(『松田の仇討』)、という芝居にも登場していました。それを熊本出身の清田直が譲りうけ、さらに安兵衛の従兄弟の子孫・堀部直に割愛しました。

しかし金象嵌の「丁卯」は貞享四年(一六八七)、安兵衛十八歳の時で、まだ堀部家の養子になっていませんでした。金象嵌は後世のいたずらということになります。東京国立博物館に「康光」と在銘、「堀部武庸秘」と銀象嵌入り、刃長二尺五寸三分(約七六・七センチ)、刀身に切り込みのある刀があります。いかにも奮戦の跡を残しているようであるが、討ち入りの時の刀は大太刀で、こんな華奢な刀ではありませんでした。

安兵衛が討ち入りの直前、堀部文五郎に宛てた遺言状によれば、普段の差料・継平の刀は、佐藤条右衛門に贈っています。討ち入りのとき大太刀、つまり野太刀を使用したことは、安兵衛が討ち入り後、預けられた予州松山藩の波賀朝栄に、野太刀は、二尺三~五寸(約六九・七~七五・八センチ)ぐらいの刀の中心を継ぎ足して、薙刀のように切先から石突きまで、総長八尺(約二四二・四センチ)ぐらいにする、と説明していることからも明白です。

その大太刀は、剣術の師・堀内源太左衛門正春の創案にかかるもので、安兵衛は討ち入りの時、正春からそれを借りて行ったともいいます。安兵衛の親戚の家で、討ち入り後、間もなく描かせた、という画像がその家に伝来しているが、傍に大太刀が描かれています。しかし、それの作者についての記述を欠くので、さまざまな臆測や創作があります。継平説一・包□説・葵下坂説・肥前国忠吉説・近江大掾忠広説など、乱れとんでいます。

討ち入りの時の脇差については、刃長一尺三寸七分(約四一・五センチ)、直刃の無銘で、刀身に刃こぼれがありました。安兵衛の妻が仏門に入るとき、和尚が持ち込みを拒んだので、処分してしまったといいます。しかし、安兵衛の妻は丹羽家に引き取られ、仏門には入っていません。仏門に入ったのはニセモノの妙海尼であるから、この脇差も妙海尼同様、ニセモノのはずです。

参考文献:日本刀大百科事典