日本刀の世界 ~日本の様式美~

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【刀剣紹介】夢切り国宗

夢切り国宗

上杉謙信が永禄三年(一五六〇)上洛、さらに足を延ばして高野山にいく途中、若江(東大阪市)城主・三好氏が、池田丹後守・多羅尾常陸介・野間左吉らをして、謙信を襲わせました。武勇の謙信は備前三郎国宗、三尺一寸(約九三・九三センチ)の大刀を揮って、三好勢を追い払いました。

謙信は晩年、これを「老之杖」にしようと思っていたが、わが武勇を貴殿以外に、継いでくれる者はいないと思うので進呈する、という手紙を添えて、常陸(茨城県)の佐竹義重に贈りました。義重は当時「鬼義重」と謳われた勇将で、しかも義重より六代前の義人は、上杉家から養子に来ていました。そんな心情的なことよりも、主目的は北条や武田を背後から牽制させる目的の贈刀だったはずです。

喜んだ義重はそれからそれを差料にしていました。ある夏の夜、暑さに耐えかねて、風通しのよい城櫓の二階に寝ていました。すると、夜中に櫓の下にある池から大蛇が現れ、義重を呑もうとするので、枕元の国宗を抜いて切り払う、という夢をみました。

夢が覚めて枕元をみると、国宗は鞘から脱して、戸に立てかけた格好になっていました。それで「抜け戸夢切り」か、または単に「夢切り」という異名がつきました。

嗣子の義宣は家督をつぐと、国宗を懇望して譲りうけたが、長過ぎるとして、刃長二尺三寸三厘(約六九・八センチ)に磨り上げてしまいました。義重はそれを見て、刀の魂が脱けてしまった、と慨嘆したが、後の祭りでした。

謙信の手紙は、寛永十年(一六三三)九月二十一日、秋田城の火災によって焼失しました。それに刀は磨り上がって無銘になっているし、刃文に国宗らしからぬ所もあるので、明和四年(一七六七)、本阿弥親俊が秋田城下に出張鑑定した時、鎌倉一文字助真に極めなおし、百七十枚の折紙をつけています。

以上のように、江戸時代における秋田藩士の古記録に、この国宗川中島の合戦の際、謙信が武田信玄の弟・典既こと信繁を斬った、いわゆる「典厩割り国宗」という記述は、一切ないのに、明治二十九年刊の『秋田沿革史大成』に、突然これを典厩割国家として紹介しているが、それは誤伝です。

参考文献:日本刀大百科事典