日本刀の世界 ~日本の様式美~

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【刀剣紹介】横雲正宗

横雲正宗

1.『享保名物帳』焼失之部所載、相州正宗極め朱銘入りの短刀です。

刃長八寸七分(約二六・四センチ)、平造りで彫物はない。差し表は五の目乱れで、切先は二重刃になり、鋩子は乱れ込んで、ほとんど焼き詰め。裏も五の目乱れで、地のほうに二重刃や飛び焼きが多い。中心はうぶ、目釘孔一個、のち二個となる。差し表に「横雲正宗」、裏に「光徳(花押)」、と朱銘入る。

もと豊後国府内の城主・竹中伊豆守重利(隆重)の所持です。西国下向のおり、誤って海中にとり落としたが、漁夫に命じて拾わせました。それで『新古今集』にある、「霞たつするの松原ほのぼのと 波にはなるる横雲の空」、という藤原家隆の和歌から採って、「横雲正宗」と命名しました。

これが徳川将軍家に入った経緯は明らかでないが、備中守重利の子・采女正重義(重次)は長崎奉行として在勤中、平野屋三郎右衛門という商人の妾を奪おうとしました。平野屋が処罰をおそれ、堺に逃走すると、その兄・市郎兵衛を投獄しました。平野屋が江戸へくだり、幕府に訴えでました。調べてみると、輸入した鮫の名品を私したり、村正の刀を数振りも蓄えていたことが判明、寛永十一年(一六三四)二月、切腹を命じられました。その時、横雲正宗を没収したものでしょう。

明暦三年(一六五七)の大火で、焼け身になったので、越前康継に焼き直させました。『享保名物帳』編集のころは、まだ将軍家にありました。その後、豊前国中津城主・奥平家に下賜され、明治維新後も同家に秘蔵されていました。同家では、うたの正宗ともいいました。

2.『御物中心押形』の横雲正宗です。

刃長九寸(約二七・三センチ)強。平造り、差し表に三銘柄の剣、裏に梵字の彫物がある。刃文は直刃彎れ風で、飛び焼きがある。中心はうぶ、目釘孔三個。 金象嵌で差し表に「正宗」、裏に本阿弥光徳の花押が入っていた。

これは加藤清正が伏見において、徳川家康に献上したもので、横雲という異名は、おそらく差し表、剣のうえに、横雲の棚引いたような飛び焼きのあるのに拠ったものでしょう。

天保三年(一八三三)までは、将軍家にありました。その後、どこかに下賜されたとみえ、明治二年調べの腰物台帳には載っていません。

参考文献:日本刀大百科事典