日本刀の世界 ~日本の様式美~

日本の伝統文化である日本刀の刀工・刀鍛冶、名刀、刀剣書籍など

【刀剣紹介】紅葉狩り

紅葉狩り

加藤清正の佩刀、備前長船兼光作、三尺三寸(約一〇〇センチ)の太刀の異名です。朝鮮における虎狩りのさい、それで虎の首を切り落としたといいます。江戸城の石垣用として、肥後から巨石を献上したさ い、清正は三尺三寸の兼光を指し、手に扇をもって、木遣り音頭を唄ったといいます。それは作者・長さからみて、紅葉狩りでしょう。清正が逝去すると、遺物として将軍秀忠に献上しました。明暦三年(一六五七)、江戸城炎上のさいは、腰物係が縄でからげて、本丸の井戸にほうり込んだので、焼失を免れたといいます。しかし、清正の形見分けの目録を見ると、将軍秀忠への献上は、長船長光の太刀と来国光の脇差となっています。

幕末には、現在の東京都北区王子本町一丁目にある王子稲荷神社に、紅葉狩りと太刀が奉納されていました。

刃長二尺三寸五分(約七一・二センチ)、不動利剣の彫刻があり、中心には差し表に「もみぢかり」、裏に「中島石右工門」、と切りつけてあった。これは窪田清音の父・助左衛門勝英が、寛政九年(一七九七)、重病平癒のさい寄進したものだった。

それに添えてあった由来書きによると、石右衛門は加藤清正に従って、文禄(一五九二)の役に朝鮮に出陣しました。立花宗茂が明兵数万に囲まれた、との報に接した清正は、救援におもむきキコル山に到達しました。石右衛門が物見役についていると、明兵八人が襲撃してきました。石右衛門が即座に三人を斬り、人に重傷を負わせたので、残り三人は逃げ去りました。

清正は、むかし平維茂戸隠山で鬼女を退治したのに似ている、と賞揚して、この刀を与えるとともに、文禄二年(一五九三)二月十八日付の感状に、「維茂石右衛門へ」と書いてくれました。石右衛門は、平維茂の鬼女退治をうたった謡曲『紅葉狩』に因んで、その刀を「紅葉狩り」と名付け、家宝としました。享保(一七一六)のころ、中島作太夫の娘が、窪田勝英の本家にあたる窪田主水正識に嫁いだとき、婚引き出として正識に贈られました。その後、それが分家の勝英の家に移っていたので、勝英が王子稲荷に寄進したわけです。以上の説が真実であっても、加藤清正の差料の「紅葉狩り」とは別物のはずです。

参考文献:日本刀大百科事典