日本刀の世界 ~日本の様式美~

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【刀剣紹介】村雲江

村雲江

享保名物帳』の原本にはなく、後世に追記したものです。越中郷義弘極めの刀です。本阿弥光徳が江州から取り出してきて、豊臣秀吉に見せたところ、村雲のような刃文だ、と言ったので、それが刀号となりました。それが加賀の前田家に伝来していて、将軍へ献上しました。将軍綱吉はこれを寵臣・柳沢吉保に与えた、という説があります。もしそれが事実ならば、元禄十五年(一七〇二)四月二十六日、綱吉が前田邸に臨んだとき、藩主・綱紀は備前長光の太刀、会津新藤五とともに、「郷義弘の刀」を献上しています。それが村雲江だったのでしょう。

しかし、柳沢家に将軍綱吉より村雲江を拝領した、という記録も、同家の『御腰物台帳』に、村雲江の名も出て来ないし、それに相当する郷義弘の刀もありません。同家では明治四年七月、廃藩になると十月には早くも刀剣の処分を始めました。一説によると、十本一束にし、一束の売り値を二両二分で、十二、三束売りに出したといいます。しかし、同家の『御腰物台帳』を見ても、そういう事実はないが、一説では、それを越後新発田の旧藩士・窪田平兵衛が手に入れ、そのうちの一本を本阿弥家に鑑定に出しました。本阿弥家では平十郎・成善・長識らが審査したが、誰も、これが郷義弘、とは気付来ませんでした。本阿弥家の『留帳』を調べてみて、初めて「村雲江」と分かった、といいます。

窪田は明治二十年ごろ、大審院評定官・伊藤暁治に二百五十円で売りました。悌治の遺族が処分したあと、高木復・内田良平・瀬戸保太郎らの愛蔵をへて、昭和九年、中島喜代一氏名義で重要美術品に指定されました。

刃長は二尺二寸二分(約六七・三センチ)・二尺二寸三分(約六七・六センチ)・二尺二寸五分一厘(約六八・二センチ)と区々。行の棟。表裏棒樋をかき流す。地鉄は柾目肌詰まり、地沸えつく。刃文は彎れがかった直刃で、足・葉・砂流し・地景入る。ただし、豊臣秀吉がいうような、村雲という風情はない。鋩子は一枚風。中心は大磨り上げ無銘。目釘孔四個。

参考文献:日本刀大百科事典