日本刀の世界 ~日本の様式美~

日本の伝統文化である日本刀の刀工・刀鍛冶、名刀、刀剣書籍など

【刀剣紹介】六つ股長義

六つ股長義

相州小田原城主・大久保家伝来、備前長船長義作の刀です。徳川家康天正二年(一五七四)四月、遠州犬居(静岡県周智郡春野町)の城主・天野景貫が、武田方だったので、これを攻略すべく軍を出したが、犬居の南を流れる気田川が増水して渡河できませんでした。家康は軍をかえすことに決め、大久保忠世と水忠重に殿軍を命じました。追尾してくる天野方の兵を二人、すべてこの刀で両股を斬り落としました。それで今まで「老いの杖」と呼んでいたのを、六股と改称しました。以後、大久保家第一の宝刀となり、藩士たちが誓言するとき、「長義の御刀にかけて、偽りは申さぬ」、と言う風習さえ生じました。

それほどの宝刀であるため、小田原城の天主閣に祀ってありました。いつのころか、小田原城が炎上しました。その時、足軽の一人が猛火に包まれた天主閣にかけ登り、この宝刀を抱えて、飛びおりました。足軽は即死したが、宝刀は無事でした。足軽は厚く賞さるべきだったが、足軽が天主閣に登ることは禁止されていました。それでその殊勲も、なんら報いられるところはなかった、という伝説があります。 この話が事実とすれば、小田原城が炎上したことはないから、元禄十六年(一七〇三)十一月二十九日、大地震によって城が崩壊した時のことでしょう。こうして死をもって守った六つ股長義も、今次大戦の戦火は防ぎきれず、焼け身となって廃棄されました。

刃長二尺四寸一分五厘(約七三・二センチ)、豪壮な造り、大切先となる。佩き表に剣巻き竜を彫るが、磨り上げてあるため、竜の頭だけが刃区の上に出ていた。裏には二筋樋と素剣の彫りがあった。地鉄は小板目肌に杢まじり、地沸えつく。刃文は尖り心の大五の目乱れに小乱れまじり、刃中よく働く。鋩子は乱れ込んで、掃きかけ心となり、返りは浅い。中心は磨り上げ、中心先に「備」の字だけ残る。その上 に「長義作」を額銘にして入れてあった。

参考文献:日本刀大百科事典