日本刀の世界 ~日本の様式美~

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【刀剣紹介】三好江

三好江

1.『享保名物帳』焼失之部所載、越中郷義弘極めの太刀です。三好長慶旧蔵といいます。三好重代の郷義弘の太刀は、刃長二尺六寸五分(約八〇・三センチ)ありました。三好郷はこれを磨り上げたものでしょう。

豊臣秀吉天正十三年(一五八五)、紀州名草郡大田郷(和歌山県和歌山市)の大田城を水攻めにした時、紀州牟婁郡岡田郷太田(和歌山県東牟婁郡那智勝浦町)の豪族・松本雅楽之助助持も、籠城していました。落城すると海路、阿波に逃げていたが、家重代の三好郷を秀吉におくり、部下の助命を乞いました。秀吉はそれを許したので、助村は羽柴秀長に仕えることになりました。

翌十四年(一五八六)十月、徳川家康が初めて大坂城に入り、秀吉に謁したとき、秀吉は相州正宗の脇差とともに、これを家康に贈りました。明暦三年(一六五七)、江戸城炎上で焼失しました。その押形は『光柴押形』『光温押形』に載っています。

刃長二尺二寸八分(約六九・一センチ)、ただし、古い記録には、二尺三寸(約六九・七センチ)とある。棟は庵棟。刃文は焼き幅広く大彎れ。鋩子は一枚に近く、返りは長く四~五寸(約一三~一五センチ)沸えていた。中心は大磨り上げ無銘。ただし、中心先には古い鑢目が残っていた。目釘孔二個。

2.『享保名物帳』焼失之部所載、越中郷義弘極めの短刀です。三好長慶旧蔵といいます。伝来は不詳です。徳川将軍家蔵となっていたが、明暦三年(一六五七)の江戸城炎上で焼失しました。

刃長八寸三分(約二五・一センチ)。『本阿弥光徳刀絵図』に、同寸の江の短刀の図が出ている。平造りで、表裏に腰樋をかく。刃文は大彎れ。中心は無銘で、目釘孔二個。これが三好江と思われる。しかし、三好郷は中心を切ってあるともいう。『本阿弥光徳刀絵図』所載の短刀の中心は、うぶと見るべきであるから、それを三好郷とするには、なお疑問が残る。

参考文献:日本刀大百科事典