日本刀の世界 ~日本の様式美~

日本の伝統文化である日本刀の刀工・刀鍛冶、名刀、刀剣書籍など

【刀剣紹介】彫り貫き盛光

彫り貫き盛光

剣巻き竜の透し彫りのある備前長船盛光の脇差です。もと備中国吉備津神社の宝物だったのを、天正十年(一五八二)、備中高松城攻めに加わっていた木村常陸介が申しうけ、普段指しにしていました。その後、豊臣秀吉の手に入ったが、金十枚で買い上げたともいいます。秀吉はこれを徳川秀忠に与えました。秀忠が天正十八年(一五九〇)正月十五日、京都の聚楽第において、初めて秀吉に謁した時のことともいいます。

慶長五年(一六〇〇)七月二十一日の朝、細川忠興は、上杉征伐の先鋒として野州宇都宮にいた秀忠に拝謁し、次男の興秋を人質として差し出しました。さらに秀忠の面前で、家臣の小川伝治に命じて、胴を試し斬りした国次の刀を秀忠に献上しました。その晩、秀忠は岡田利治を使者として、人質の興秋を返すとともに、彫り貫き盛光の脇差に、花牧という良馬を添えて贈ってきました。

秀忠の伝言として、この脇差は、忠興がかねがね所望と聞いていたが、太問よりの拝領物であるため、贈るのを控えていました。これからの天下分け目の戦では、どうなるか分かりません。これが最後になるやも知れぬによって、そなたに贈る、ということでした。熊本における伝承では、豊臣秀吉が安芸の厳島神社からもらい受け、徳川家康に贈ったものを、秀忠が譲りうけたともいうが、それは誤伝です。

明治十一年、熊本の水前寺公園に、幽斎・忠興・忠利・重賢らを祀った出水神社が創建された時、盛光は忠興のご神体として、白鞘入りだけにして神殿に安置されました。昭和六年、神鏡を新調して、盛光と交換しました。同社神官の談によれば、終戦直後の刀狩りのさい、盛光は細川侯爵家に返納したといいます。しかし、同家から供出したのか、同家にも現在はもとの拵えだけで、刀身はないようです。

忠興が藩工の大道直房に、本刀を模造させ、拵えをつけたものが現存します。それを家臣の陣某が拝領、明治の初め旧藩士の堀部直臣が譲りうけていたものを、小森田という刀剣商が買いとり、忠興の五男・興孝の子孫である、子飼(熊本市)の細川男爵家に納めました。同家の売立て入札のさい、『肥後刀装録』の著者・片岡直傳が世話役だったため、業者の入札価格と同値で引きとり、愛蔵していました。終戦後は行方不明です。

彫り貫き盛光は、刃長一尺一寸七分五厘(約三五・六センチ)、というほか不明であるが、大道直房の模造刀からみれば、平造りで、反り一分五厘(約〇・四五センチ)、鎺もとに真の剣巻き竜を透し彫りにし、その上に棒樋をかく。刃文は直刃。模造刀では目釘孔二個、「大道直房入道」と在銘。拵えは、鮫柄のうえを燥し革で巻き、頭は黒の塗り角、縁は樋形で小豆革包み、目貫は赤銅地、金の桐紋すえの壺笠形。鍔は金の八つ木瓜、小柄は銀の丸張り。鞘は黒漆に点朱塗りとなる。

参考文献:日本刀大百科事典