日本刀の世界 ~日本の様式美~

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【刀剣紹介】篠造り

篠造り

1.足利家重代、備前一文字則宗の太刀の異名です。小竹造り、小竹切り、篠丸ともいいます。ほかに二つ銘という別称のあるのは、「備前国則宗」という銘の「備前」が朽ち、「則」のように見えるので、「則国則宗」つまり則国と則宗の合作と誤読したためです。篠造りという異名は、拵えの金具に笹竹の毛彫りがあるためです。 足利尊氏建武二年(一三三六)九州へ敗走の舟出のさい、篠造りを海に取り落としました。海底に沈んでいたのを、曽我左衛門尉師助が拾い上げました。九州で勢を盛りかえして上洛の途につくときは、弟の直義が條造りを佩いて出ました。足利義満が明徳二年(一三九一)十二月、山名氏清の軍を迎撃したさい、二十六日には篠作り、二十九日には篠作りと二つ銘を佩いてでた、というが、篠作りと二つ銘は同じ物です。

足利義昭がこれを鬼丸・大転多とともに、豊臣秀吉に贈ったところ、さ っそくこれを京都の愛宕山へ奉納しました。その時期は明らかでないが、おそらく天正十六年(一五八八)、豊臣秀吉から一万石を与えられ、准三宮に推薦してもらった謝礼と、足利幕府再興の野心のないことを示すためだったのでしょう。秀吉がこれと同時に贈られた鬼丸を本阿弥光徳に預けたのは、火除けの呪いでした。愛宕神社は火伏せの神とされているから、鬼丸同様、火除けの呪いとして同社に奉納したのでしょう。名称も足利家での篠造りをきらい、二つ銘と呼んでいたようです。なお、同社では、拝見しても他言しない掟になっていました。本阿弥光徳も拝見したが、その様子を子の光甫に伝えませんでした。そういう掟があったのも、二つ銘が呪物として奉納されたためでしょう。

正保二年(一六四五)正月二十三日、愛宕神社が炎上しました。二つ銘が紛失していたところ、丹波国一の鳥居原(京都府北桑田郡京北町鳥居)で、刀箱に入ったまま発見されました。百姓たちがそれを二十五日愛宕山に届けてくれました。見ると、刀袋の勅封も、刀箱の五坊のお印もそのままでした。その時さらに外箱が作られ、五坊の老人たちが封印しました。

本阿弥光甫らが京都所司代・板倉周防守に、二つ銘の拝見を願いでました。周防守がそれを愛宕山に伝えたが、朝封で、愛宕社でも拝見したものがない、と断られました。

八代将軍吉宗享保四年(一七一九)十月、本阿弥光忠・光通をよび出して、側用人・有馬兵庫に二つ銘のことを訊かせました。光忠は二条宗近の作ではないか、光通は伝来がないから分からない、と答えました。ところが、幕府ではすでに京都所司代に命じ、二つ銘は調査済みでした。それで、実物を見ると則宗の銘があります。二つ銘ではないようだが、ほかに篠造りという刀があるのか、と光忠に訊きました。本阿弥家には、秀吉が二つ銘を愛宕山へ奉納したこと、小竹切りという別名のあること、東馬備太夫という者が、金具に條の紋があるため、篠作りとよぶ、と言った記録のあることなどを、書面で回答しました。

京都で二つ銘の調査をしたのは、その前月のことでした。所司代・松平伊賀守忠周から、京都の本阿弥光盛に、二つ銘を取り寄せました。見に来い、という呼び出しがきました。しかし、錆ついて抜けないので、九月二十八日に鞘師を連れて行きました。他言無用を言い渡された上、鞘師がいろいろ工面して抜いてみると、錆はきていませんでした。それから三日間、絵師をよんで、刀身や拵えを模写させました。

十一月になると、松平伊賀守は光盛に命じて、刀身の木形や外装の模造をさせました。翌年正月十一日出来上がって、伊賀守に納めました。そのとき二つ銘の研ぎを、光盛が承ったので、銘を模写し、外装も記録を採っておきました。

それによると、外装は革包みの鬼丸拵えになっていて、柄の縁・甲金・猿手や大切羽に笹竹の毛彫りがある。目貫は丸に二つ引きの紋。柄の鮫皮は取れているが、もとは塗り鮫を革で包み、さらに黒糸で巻いてあった。鍔は五枚の練り皮で、革包み。鞘も革包みで、金具には笹の彫りがあった。

刀身は刃長二尺六寸八分(約八一・二センチ)というが、現在は二尺六寸四分三厘(約八〇・一センチ)しかない。地鉄は大板目肌流れ、刃文はもと丁子乱れ、逆足入り、上は広直刃に小足入り、匂い締まる。鋩子は小丸が割れて尖る。中心はうぶで、銘は大振りで「備前国則宗」と五字銘。ただし「備」は全くなく、「前」は半ば朽ち込んでいる。

2.足利将軍義教の愛刀です。粟田口国綱の作です。義教が国綱を賞玩したので、献上物には「国綱」と偽銘を切らせました。 義教が赤松満祐に談されたとき、帯びていたのは偽物の国綱でした。本物の佩刀はその後、岸和田城主・安宅冬康が愛蔵していました。

3.『享保名物帳』焼失之部所載、相州正宗の刀の異名です。拵えの金具に笹の紋があったことからの命名です。 刃長二尺二寸七分(約六八・八センチ)、大磨り上げ無銘、代金二百枚。徳川将軍蔵で焼失というから、明暦三年(一六五七)の大火で焼失したものに違いない。

4.足利将軍義満が山名時煕、または義顕に与えた太刀です。刀銘は不明。山名家はそれを名誉として笹の紋を副紋とするようになりました。

参考文献:日本刀大百科事典