日本刀の世界 ~日本の様式美~

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【刀剣紹介】小鍛治薙刀

小鍛治薙刀

京の三条小鍛冶宗近の作った薙刀です。

1.徳川将軍家小薙刀

源義経の安・静御前所持といわれもので、作者を小鍛治宗親としたものもあるが、それは小鍛冶宗近の誤記と見るべきでしょう。三代将軍家光がそれでもって雁を、えいっと横に払ったところ、中心から折れたとも、猪狩りにいって猪を払ったところ、中心から折れたともいいます。側近のものが、将軍家の大事なお譲り道具を折ってしまって、と非難する声を老中の堀田正盛がきいて、戦場で折れたらどうする? 今折れてよかった、と皆をたしなめました。その後、山城守という鍛治に中心を継がせました。山城守とは日置一法のことでしょう。それで試し斬りをしてみたが、切れ味は最高だったといいます。明暦三年(一六五七)の江戸城炎上のさい、焼失したようです。その後、徳川家に伝来していません。

2.加賀前田家の小薙刀

これも静御前所持と伝えられるもので、作者は志津三郎兼氏との説もあるが、兼氏は静御前より一五〇年も後の人だから、それは問題になりません。やはり小鍛治宗近の作とすべきで、前田家の記録でも小鍛冶宗近作となっています。それで、宗近の薙刀は将軍家にもあるそうです。どちらが本物だろうか、と噂する者がいました。それに対して、前田家三代目の利常は、義経の思い者だ。薙刀の二、三本持っていなくてどうする? と軽くいなしたといいます。その後、本阿弥光市に命じて鞘を新調することになりました。 光市は、江戸日本橋の鞘師・久右衛門に、それを頼みました。そのころ久右衛門の弟子が疫病にかかり、うわ言をいうほど重篤だったが、その古鞘を戴かせたところ、たちまち平癒しました。近所のものも同様にして、八人も全快しました。そのご利益の大きいのに驚いた久右衛門は、光甫を通じて、前田家の重臣・今枝民部に、古いの拝領を願いでました。それに対する民部の処置は不明であるが、おそらく鞘師に下げ渡されたことでしょう。この薙刀は前田家の重宝であるため、藩主の寝室の長押に掛けることになっていました。奥女中たちには、月の障りのある者はこの部屋に入ってはならぬ、と厳命してありました。ある女中がそれをうっかり忘れて入ったところ、薙刀がいきなり落ちてきました。それ以来、奥女中たちの恐怖の的になりました。それで五代目綱紀のとき宝蔵に保管することになりました。文化九年(一八一二)三月、同家のお抱え・本阿弥長根がお手入れに下ったときも、宝蔵に格納されていました。

3.祇園社薙刀

京都の祇園祭りに四条東洞院西入町より出す山車は、長刀鋒といって先頭に繰り出します。その薙刀が小鍛治宗近の作と伝えられていたが、幕末になるとそれは出さず、和泉守来金道作の薙刀を代用していました。

参考文献:日本刀大百科事典