日本刀の世界 ~日本の様式美~

日本の伝統文化である日本刀の刀工・刀鍛冶、名刀、刀剣書籍など

【刀剣紹介】鉋切り長光

鉋切り長光

享保名物帳』所載の太刀です。もとの持主・又五郎は江州堅田の住人とも、また堅田は姓ともいいます。又五郎が江州伊吹山の麓を、顔見知りの大工と連れ立って歩いていると、その大工がにわかに恐ろしい形相に変わり、又五郎に襲いかかろうとしました。又五郎は腰の長光をぬいて切りつけました。大工が持っていた鉋で受けたところ、それを真二つに切りさげました。その瞬間、大工の姿は消え失せました。それで「鉋切り」の異名がつきました。それを領主の佐々木家で召し上げたとみえ、永正(一五〇四)のころ、佐々木近江守氏綱が所持していました。その後、甥にあたる管領・佐々木義賢に伝わりました。

ある時、義賢が重病にかかりました。それは又五郎に斬られた大工の祟りだから、誰か義賢の身替りになって死に、長光を寺に奉納したらよかろう、という者がいました。それで一族の総江美濃守定実が身替りとして、生きながら愛知郡愛東村の百済寺内、竜花院に埋葬され、長光も竜花院に奉納されました。永禄十一年(一五六八)、織田信長は義賢を降伏せしめたのち、鉋切りを召し上げたのでしょう。天正七年(一五七九)六月二十四日、丹羽長秀から周光の茶碗を召し上げたかわりに、鉋切り長光を与えています。長秀から蒲生氏郷へ渡った経緯は明らかではありません。

その後、氏郷はそれを豊臣秀吉に献上し、秀吉はさらに徳川家康に贈り、それが秀忠に伝わった、との説は誤りです。寛永元年(一六二四)四月十四日、将軍家光が氏郷の子・忠郷の邸に臨んだとき、忠郷が豊後行平の太刀や相州貞宗脇差とともに献上した、というのが正しいです。寛永三年(一六二六)十一月、前将軍秀忠が前田利常の娘を養女にして、作州津山城主・森忠政の長男・忠広に入輿せしめたとき、秀忠は婚引出として、鉋切り長光と当麻国行の脇差を与えました。忠広は早世したので、弟の内記長継が津山城主を継ぎました。長継はこれを延宝二年(一六七四)五月二十六日、致仕の挨拶として将軍に献上しました。

延宝六年(一六七八)九月、本阿弥家で二十五枚の折紙をつけました。延宝八年(一六八〇)十一月二十九日、将軍綱吉より長子・徳松へ与えたが、徳松が夭折したあとは、将軍の御物として明治に至りました。大正十二年の関東大震災により、蔵刀の焼失した水戸家の乞いにより、同家に贈られました。昭和二十三年重要美術品指定です。

刃長一尺九寸五分(約五九・一センチ)、差し表に二筋樋、裏に刀樋と添え樋をかく。地鉄は板目流れ心。もとに棒映り、さき丁子映りとなる。刃文はやや大き目の丁子乱れ、鋩子乱れ込んで、先わずかに返る。中心はうぶだか、先を一文字に切る。目釘孔三個、「長光」と二字銘。

参考文献:日本刀大百科事典