日本刀の世界 ~日本の様式美~

日本の伝統文化である日本刀の刀工・刀鍛冶、名刀、刀剣書籍など

【刀剣紹介】鐘切り

鐘切り

1.武蔵坊弁慶の太刀です。平安城有国の作です。

2.小多喜権兵衛の差料です。権兵衛は江戸初期、江戸の小田原町(中央区)にあった男伊達・小多喜組に属し、元来は商人です。その差料「鐘切り」は、濃州関の兼則の作です。これを兼乗とするのは誤りです。当時、浅草に鐘弥左衛門という大力の男伊達がいました。もと隅田川の船頭でしたが、二十歳のとき侠客の群に入り、鐘姓を名乗りました。鐘は突かれても叩かれても、遠くまで音が聞こえるのに因んだものでした。

権兵衛も弥左衛門も、新吉原江戸町二丁目(台東区)、玉屋抱えの鈴木という遊女のもとに通っていました。延宝六年(一六七八)十一月のある日、両人が玉屋に行くのに鉢合わせしました。権兵衛が連れの左兵衛に、今なん時だ。鐘を叩く時間ではないか、と皮肉りました。それを弥左衛門が聞きとがめ、昼の時外れの三人や五人で、鐘を討とうとは思いもよらぬわ。小多喜組なら権兵衛に訊いてみよ、とやり返しました。

かっとなった権兵衛が、わが差料は関の兼則、異名を鐘切りという。弥左衛門が胴なかを斬ってくれようか、と刀を抜いて斬ってかかりました。それと同時に、連れの左兵衛と小多喜宇右衛門、三人も斬りつけてきました。弥左衛門が苦戦しているところに、蔵前の男伊達、若江長六と善兵衛が通りかかり、留めに入ったが、両方きき入れないので、苦戦している弥左衛門方について、両人も斬り合いをはじめました。

そこに鈴木が出てきて、権兵衛の刀の切先に、着ていた小袖をぬいで、投げかけました。その機転に我に返った町内の者たちが、袖がらみや刺す股を持ち出してきて、両方を引き分けたので、怪我人も出ないですみました。

3.一文字吉元の太刀です。

刃長二尺四寸一分(約七三・〇センチ)、表裏に棒樋。刃文は丁子乱れに五の目まじり。崇仁親王が昭和十年、三笠宮家創立のさい天皇より下賜。終戦後、国が購入、現在は東京国立博物館保管。

参考文献:日本刀大百科事典