日本刀の世界 ~日本の様式美~

日本の伝統文化である日本刀の刀工・刀鍛冶、名刀、刀剣書籍など

【刀剣紹介】大郷

大郷

1.相州住吉弘の異名です。むかし地元では、吉弘を郷義弘の父と考えていたので、大郷と呼びました。

2.『享保名物帳』焼失之部所載の太刀です。大江とも書きます。もと河内の守護代・遊佐家蔵だったので、遊佐大郷とよばれていました。のち摂津伊丹城主・荒木摂津守村重の所蔵でした。村重は天正七年(一五七九)、織田信長に攻められて落城、流浪の身となりました。それで秘蔵の大郷を売りに出しました。本阿弥光二が本刀を信長に買い上げさせようとしましたが、不吉な刀だ、といって断られました。 それを信長の近臣某がききつけて、買い上げようとしたが、高価なため手が届きませんでした。そこで大郷を光二からただ取りしようとたくらみ、信長に光二のことを讒訴(他人をおとしいれようとして、事実を曲げて言いつけること)しました。そのため光二は一時、信長の不興をかったこともあったが、その妻・妙秀が信長に無実を直訴したため、ようやく信長の勘気が解けました。その後、豊臣秀吉の手にわたり、「一之箱」に収められました。埋忠寿斎に磨り上げさせたのを、本阿弥光徳も見て、刀絵図を描いています。大坂落城のさい焼失しました。

刃長はもと二尺九寸一分(約八八・三センチ)あったが、元亀(一五七〇)ころは、二尺四寸五分(約七四・二センチ)、さらにそれを埋忠寿斎が磨り上げて、二尺一寸七分五厘(約六五・九センチ)にした。本造り。刃文は直刃に乱れまじり、沸え盛んにつく。 鋩子は尖る。中心は目釘孔二個、磨り上げ無銘。刀号は、出来が最上というので、大郷と名づけた、というが、もと二尺九寸一分という大太刀だったことや、大江に対して小江もあった、というから、長大なため大郷と名づけたと見るべきである。

参考文献:日本刀大百科事典