日本刀の世界 ~日本の様式美~

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【刀剣紹介】長銘貞宗

長銘貞宗

1.『享保名物帳』所載、相州貞宗作の短刀です。徳川将軍家の蔵刀で、寛永七年(一六三〇)に金二百枚の折紙がつきました。同十五年(一六三八)正月十一日、拵えをつけるため、本阿弥三郎兵衛が埋忠家に持参、埋忠与三左衛門が金具を作りました。なお、拵えの関係で、中心先を少し切りました。それで刃長は九寸一分(約二七・六センチ)となりました。 平造りで、差し表に折り返し樋、裏に梵字と棒樋のなかに浮き剣を彫る。刃文は直刃調の彎れ刃、鋩子は大丸で、長く返る。中心は目釘孔二個。銘は表に「相模国住人貞宗」、裏に「建武三年八月」と切る。 『享保名物帳』に、すでに「有所不知」となっている。 本阿弥光塔の『名物刀記』に、「長銘貞宗一尺ばかり」とあるものが、薩摩の島津家と、本多正純の嫡子・正勝のもとにある、とあります。おそらく正勝所持のものが、『享保名物帳』所載のものでしょう。正勝は父正純とともに、元和八年(一六二二)に流罪となり、寛永七年(一六三〇)、配地で病没しました。 ところが、その年、本阿弥家で金二百枚の折紙を出しています。本刀は正勝が病死したので、売りに出され、新しい持主が鑑定を求めたものであろうが、正勝が流罪の身だったことを考慮して、わざと『享保名物帳』には、「有所不知」としたものでしょう。

2.『本阿弥光柴押形』『継平押形』所載、相州貞宗の短刀です。織田信長の甥で、尼崎城主の津田七兵衛信澄が、信長より拝領していたが、本能寺の変のとき、信澄は明智光秀の婿で、光秀に加担したため、信長の三男・信孝のため、大坂城において殺されました。それで紛失したが、大坂の町人が密かに入手、秘匿していたのを、本阿弥光柴が千貫で買いとりました。そして備前岡山城主・池田忠継に売りました。忠継は本刀を弟の忠雄に譲りました。その後の消息は不明です。 刃長九寸八分五厘(約二九・八センチ)、平造り、差し表に刀樋と添え樋をかく。裏は不明。刃文は彎れ刃に五の目まじり。鋩子に沿い、地のほうに飛び焼きがある。中心は目釘孔二個。銘は「相模国住人貞宗」。

3.『継平押形』所載です。享保二年(一七一七)、将軍家の蔵刀を写した『継平押形』にあるから、当時、将軍家の蔵刀だったことになります。幕末の将軍家腰物台帳には見当たりません。 刃長九寸七分(約二九・四センチ)、平造り、表裏に刀樋と添え樋をかく。刃文は五の目乱れ、鋩子小丸。中心は目釘孔二個。銘は「相模国住人貞宗」と切る。

4.本阿弥光瑳撰『名物刀記』所載です。薩摩の島津家久蔵と、本多正純の子・ 正勝蔵と二振りあって、ともに刃長は「一尺ばかり」となっています。その後の伝来は不明です。

参考文献:日本刀大百科事典

写真:刀剣名物帳「長銘貞宗

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