日本刀の世界 ~日本の様式美~

日本の伝統文化である日本刀の刀工・刀鍛冶、名刀、刀剣書籍など

【刀剣紹介】奈良屋貞宗

奈良屋貞宗

享保名物帳』所載、相州貞宗作の短刀です。もと泉州堺の商人・奈良屋宗悦所持でした。文禄(一五九二)のころ、黄門秀俊が五百貫で購入しました。黄門とは中納言のことで、当時、中納言秀俊と称したものに、豊臣秀保と小早川秀秋とがあります。ただし、秀保の初名を秀俊とするの は、『雨庵太閤記』の誤記ともいいます。すると、黄門秀俊とは小早川秀秋のこととなります。 黄門秀俊はこれを豊臣秀吉に献上。同家の一之箱に納められていました。本阿弥光徳も本刀の押形をとりました。秀頼は慶長十三年(一六〇八)五月六日、渡辺筑後守勝に命じて、本刀を携行、東下せしめました。勝は同月二十一日、本刀を将軍秀忠に献上しました。秀忠は元和九年(一六二三)二月十三日、尾州徳川邸の新築祝いに臨み、本刀を藩主・義直に贈りました。秀忠が同年六月、上洛の帰途、名古屋に立ちより、本刀を義直に与えた、との『享保名物帳』の説は誤りです。将軍家光が上洛の途中、寛永十一年(一六三四)七月五日、名古屋城に立ちよったさい、藩主・義直が「なごや貞宗脇差」を献上した、というが、 これは「ならや貞宗脇差」の誤りでしょう。寛永十七年(一六四〇)五月十四日、将軍家光は紀州邸に臨み、藩主・頼宣に、奈良屋貞宗を贈りました。

慶安三年(一六五〇)、「中納言殿」から本阿弥家にきて、三百枚の折紙がついた、というが、当時、紀州家の世子・光貞も、尾州家の世子・光友も、ともに近衛権中将でした。中納言になったのは、両人とも承応二年(一六五三)のことです。おそらくこの時、紀州光貞が中納言にしてもらった御礼として、将軍へ献上したものでしょう。 享保四年(一七一九)、『名物帳』が出来たときは、尾州徳川家蔵になっています。尾州綱誠が天和元年(一六八一)七月、帰国の挨拶に登城したさい、将軍綱吉より「貞宗の差添」を拝領しています。おそらくこれが奈良屋貞宗だ ったのでしょう。以後、尾州徳川家に伝来、最後の藩主・義宜が差料にしたこともありました。

刃長九寸七分(約二九・四センチ)、反り一分(約1センチ)、平造り、真の棟、差し表に素剣と梵字、裏に護摩箸を彫る。地鉄は小杢目肌つまり、地沸え厚くつく。刃文は小彎れで、刃縁は掃きかける。鋩子は小丸、長く返る。中心は生ぶ、目釘孔二個、無銘。

参考文献:日本刀大百科事典

写真:刀剣名物帳「奈良屋貞宗

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