【刀剣紹介】村雲当麻
村雲当麻
『享保名物帳』所載、大和の当麻極めの短力です。もと関白秀次の母の守り刀です。秀次の菩提を弔うため、文禄五年(一五九六)に、瑞竜寺を今の京都市上京区堅門前町に建てました。この付近を村雲というため、俗に村雲御所と呼ばれました。出家して日秀尼となった秀次の母は、本刀を秀吉に返しました。秀吉が慶長三年(一五九八)に没すると、その形見として、越後春日山城主・堀秀治に贈られました。秀治の嗣子・忠俊は慶長十五年(一六一〇)に、家臣の争いの責めを問われ、改易となりました。そのためであしょう、本刀は老中・本多正純の手に渡りました。正純が元和八年(一六二二)に改易になると、本刀は将軍家に没収されたのでしょう、本阿弥光温が寛永十四年(一六二七)極月十四日、または同二十年(一六四三)極月十五日に、金具製作の依頼に持ってきました。金具は埋忠明甫が製作しました。同七年(一六三〇)に本阿弥家で、金七十枚の折紙をつけました。正保四年(一六四七)九月八日、尾州藩主・徳川義直が、病後はじめて登城すると、将軍家光は本刀を義直に贈りました。明暦二年(一六五六)四月八日、義直の嗣子・光友は、将軍家綱の疱瘡全快を祝して、本刀を献上しました。翌年(一六五七)の江戸城炎上によって焼失しました。
刃長は七寸八分五厘(約二三・八センチ)、または七寸九分(約二三・九センチ)で、平造り、差し表に素剣に添え樋、裏に素剣だけを彫る。刃文は直刃、鋩子は小丸で、わずかに返る。中心はうぶ、無銘、目釘孔一個。
参考文献:日本刀大百科事典
写真:刀剣名物帳「村雲当麻」