日本刀の世界 ~日本の様式美~

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【刀剣紹介】源来国次

源来国次

『享保名物帳』所載、京の来国次作の短刀です。もと相州小田原城主・北条氏綱の差料で「蜘手切り」と呼ばれていました。蜘手は蜘蛛の宛て字で、クモのことです。初め高野山三宝院にあり、のち同じく南谷の林蔵院の什物(代々伝わる宝物のこと)になりました。おそらく天正十八年(一五九〇)に、小田原落城により北条氏直高野山に追放された時、三宝院に寄進したものでしょう。
その後、金沢城主・前田利常が入手し、
寬永十八年(一六四一)本阿弥家に、鑑定に出し、金百七十五枚の折紙をつけました。拵えの金具は埋忠寿斎が作りました。どういう事情か、備中松山城主・水谷伊勢守勝隆の所蔵に移りました。勝隆の子・左京亮勝宗が寛文十年(一六七〇)、本阿弥家の鑑定に出したところ、五千貫に昇格しました。勝宗の嗣子・出羽守勝美が元禄六年(一六九三)に早世し、養子がまだ公許を得ていなかったので、所領は没収されました。
その代わり、弟の主水勝時に三千石が与えられ、旗本になりました。『享保名物帳』編集のころ、水谷家の当主は左門勝英でした。したがって『享保名物帳』に、所蔵者を「水谷左京亮」としてあるのは誤りです。それはおそらく寛文十年(一六七〇)、折紙を出した時の『留帳』の記載を鵜呑みにして、転写したからでしょう。実際は所領を没領されたさいに処分され、水谷家にもなかったのでしょう。と言いますのは、江州彦根城主・井伊家に伝来していて、大正十二年、関東大震災で焼失、その焼け身が今なお同家にある、という説もあるからです。
刃長は九寸七分五厘(約二九・五センチ
)で、表裏に刀樋をかく。刃文は差し表直刃で、先浅い五の目乱れとなり、地蔵鋩子となり返る。裏は彎れ刃となり、鋩子小丸に返る。中心はうぶ、表に「来源国次」裏に「藤原秀祐 正慶元年十一月廿五日」と切る。従来、日付を「十一月五日」としているのは誤り。なお、『享保名物帳』で、異名のないのはこの「源来国次」一振りだけであるが、前述のとおり「蜘蛛切り」という異名がある。

参考文献:日本刀大百科事典