日本刀の世界 ~日本の様式美~

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【刀剣紹介】宗瑞正宗

宗瑞正宗

享保名物帳』所載、相州正宗作の短刀です。もと織田信長の一族・小田井織田家に伝来しました。小田井大学が豊臣秀頼の小姓だった関係で豊臣家に献上しました。本阿弥光徳が相州行光と鑑定し「をたい行光」と鞘書きしました。「をたい」は小田井で大田井と書くは誤りです。毛利輝元入道宗瑞が本刀を拝領しました。宗瑞の嗣子・長門守秀就は松平忠直の妹と結婚、その間に生まれた娘は、忠直の嗣子・光長に嫁ぎました。そんな関係で、本刀はいつのころか松平家に贈られました。松平家から尾張徳川家に移っていたものを、元禄十一年(一六九八)三月十八日、将軍綱吉が尾張邸に臨んだとき、藩主・綱誠より将軍に献上しました。宝永二年(一七〇五)三月十八日、綱吉より家宣へ与えました。享保十年(一七二五)に、本阿弥家では従来、百五十枚の代付けだったのを、二百五十枚に格上げしました。

寛保元年(一七四一)八月十二日、家治が元服のとき、将軍家重より今まで脇差の拵えだったのを、小さ刀の拵えになおして、家治に与えました。三所物は後藤四郎兵衛の作で、赤銅色紙、葵紋三双、小柄は裏金哺みでした。明和三年(一七六六)、家斉が元服のとき、将軍家治より家斉へ与えました。爾来、徳川将軍家の重宝となっていましたが、明治二十年八月五日、侍従の山岡鉄斎の取り次ぎで、明治天皇へ献上しました。現在も皇室の御物になっています。

刃長は現在、八寸二分八厘(約二五・一センチ)しかなく、おそらく寛保元年(一七四一)、拵えを新調したとき、表裏の区際が染みていたので、区送りしたものであろう。平造り、真の棟。表に素剣、裏に腰樋と添え樋をかく。地鉄は大板目肌、刃文は表、浅い五の目乱れ、裏は大五の目乱れ、荒沸えつく。鋩子は火炎風で、返りは深い。中心はうぶ、区送り、目釘孔三個、無銘。

参考文献:日本刀大百科事典

写真:刀剣名物帳「宗瑞正宗」

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