日本刀の世界 ~日本の様式美~

日本の伝統文化である日本刀の刀工・刀鍛冶、名刀、刀剣書籍など

【刀剣紹介】増田藤四郎

増田藤四郎

享保名物帳』所載、粟田口吉光の短刀です。もと京都の八幡にいる鶉の愛好家が持っていました。その知人が飼っている優秀な鶉と短刀を交換しました。知人の親類に増田宗善という商人がいて、金二十枚で譲りうけました。それを越前北庄城主・松平忠直に差し上げたところ、千貫下されました。増田宗善旧蔵というので、増田藤四郎と呼ばれるようになりました。

忠直は元和九年(一六二三)に、豊後に配流になったまま、慶安三年(一六五〇)に逝去しました。よって増田藤四郎は、忠直の子で当時、越後高田城主だった松平光長のもとに届けられました。翌四年(一六五一)、松平家では本阿弥家に出し、三百枚の折紙をつけました。大村加トは当時光長のもとで外科医をしていたため、本刀の拝見を許されました。それで『刀剣秘宝』にも、本刀のことを書いています。それによると、本阿弥光温が「日本で一つの道具」と褒めたといいます。また「光」の字が異常に大きいのは吉光の若い時の銘だから、と説明しています。

光長も天和元年(一六八一)に、有名な「越後騒動」によって伊予松山城主・松平家にお預けの身となりました。貞享四年(一六八七)、赦免になると、養子の長矩に家を譲りました。長矩は元禄十一年(一六九八)に作州津山城主に移されました。以後、この短刀は津山松平家に伝来していましたが、戦前すでに同家を出ています。

刃長は八寸六分(約二六・一センチ)で、筍反り、平造り、真の棟。表裏に護摩箸を彫る。梨地に板目肌まじり、棒映りのでた地鉄で、はばきもとに数個の五の目乱れを焼き、上は直刃に小乱れまじりの刃文となる。鋩子は小丸、返りはやや深い。中心はうぶ。「吉光」と二字銘。「吉」の字にくらべ、「光」の字が特に大きくなる。

参考文献:日本刀大百科事典

写真:刀剣名物帳「増田藤四郎」

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