日本刀の世界 ~日本の様式美~

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【刀剣紹介】武蔵正宗

武蔵正宗

 『享保名物帳』所載、相州正宗極めの刀です。刀号の由来について、『享保名物帳』には、宮本武蔵旧蔵説と、紀州徳川家の家来から出たものを、武蔵国江戸で召し上げたから、という説とがあります。
将軍家の『御腰物台帳』では、宮本武蔵説を採っています。初め二代将軍秀忠が本刀を、紀州徳川頼宣に与えました。頼宣の子・光貞がまた将軍に献上しました。もっと詳しくいいますと、紀州の徳川光貞の世子・綱教が、五代将軍綱吉の長女・鶴姫と結婚したため、貞享二年 (一六八五)三月六日に、光貞が将軍に献上したものです。これを逆にして、将軍から光貞へ、当麻の刀と武蔵正宗の脇差を給う、とする説がありますが、それは朱判正宗を武蔵正宗と混同したものです。
折紙は、紀州家時代は金百五十枚でしたが
、将軍家に入ってから五千貫に値上がりしています。近江守継平が享保二年(一七一七)に採った押形は「武蔵正宗」と注記してありますが、中心が短く、目釘孔も一個で、樋先や鋩子の格好も、現存刀と対比すれば、同一物とは見えません。戊辰の役で、山岡鉄舟西郷隆盛と折衝し、江戸城攻撃を中止させました。それから十余年後、徳川慶喜はその時の功を追想し、本刀を鉄舟に贈りました。鉄舟は、あれは岩倉具視らの恩情によるもの、と考えました。本刀を具視に贈りました。具視はさっそく川田甕江に、『正宗鍛刀記』を書いてもらいました。。日付は「明治十六年紀元節後之日」となっています。
大正三年、岩倉家の売立に出ましたが、千百九十円の札しか入りませんでした。それで競売を見合わせ、あとで親族が三千五百円で引き受けました。しかし、昭和十二年に重要美術品に指定された時の所有者は、岩倉具栄公爵の名義になっています。
刃長は二尺四寸四分(約七三・九センチ)で、反りは『名物帳』に「拾好直也」とあるとおり、四分二厘(約一・三センチ)にすぎない。真の棟、大切先。表裏に棒樋をかき通し、樋先さがる。はばき元近くに一か所、切り込みの痕がある。地鉄は、差し表が大板目で肌立つのに対し、裏は詰まって、地沸えつく。刃文は彎れに乱れ刃まじり、掃き掛ける。鋩子は乱れ込んで、深く返る。中心は八寸四分五厘磨り上げ、というのは、元の中心先から、磨り上げ後の刃区までの長さであろう。目釘孔二個。
拵えの金具は、すべて葵紋のついた鉄金具。鞘は鮫をきせ、黒漆をかけて研ぎ出し、その上に黒く葵紋をすえ
る。鐺は櫂形の袋鐺となる。

参考文献:日本刀大百科事典
写真:刀剣名物帳「武蔵正宗」

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