日本刀の世界 ~日本の様式美~

日本の伝統文化である日本刀の刀工・刀鍛冶、名刀、刀剣書籍など

【刀剣紹介】籠手切正宗

籠手切正宗

籠手切り」という異名の由来については、越前の朝倉氏景が文和四年 (一三五五)二月十五日、京都東寺の戦のさい、敵兵の籠手を 切り落としたから、という説や朝倉孝景が大永七年(一五二七)十月二十九日に、京都の川勝寺口で、畠山勢を破ったときのこととする説、朝倉教景が大永七年(一五二七)十一月十九日、京都の西院で、畠山勢を破ったときのこととする説などがあります。最後の説が正しいようです。

もと三尺二寸 (約九七・〇センチ)の大太刀で、朝倉家では相州貞宗の作とされていました。天正元年(一五七三)朝倉家が滅亡したとき、倶利伽羅郷・中村太刀とともに、本刀は織田信長の有に帰しました。それを信長が磨り上げたの ち、近臣の大津伝十郎に与えました。伝十郎の出自については、江州大津城主大津弾正の次男という説と、尾州北方の渡し辺の百姓の子で、信長が鷹狩りのとき召し出して、小姓に加えたという説とがあります。信長の許では検使や摂州高槻の城番など勤め、また丹羽長秀の娘を妻にしていました。本能寺の変で、二条城で討死したといいます。

その後、豊臣秀吉の手を経てのことでしょうが、秀吉の信任の厚かった下野天明城主・佐野信吉が秘蔵していました。そのころは相州行光の極めでした。信吉は慶長十九年(一六一四)七月、実兄の伊予宇和島城主・富田信高が改易になった事件に関連があり、かつ大坂城と内通の疑いありとして改易、信州松本に追放されました。それで本刀を手放したのでしょう、金沢城主・前田利常が入手しました。以後、同家に伝来『享保名物帳』では相州正宗として収載されています。しかし、代付けについては「不知代」また七千貫とあります。前田家の記録では「千貫以上之御力」の部には入れてありますが、本刀だけは枚数の記入がありません。やはり代付けはなかったと見るべきでしょう。文化九年(一八一二)三月に本阿弥長根 が手入れした記録があります。明治十五年、平野藤四郎とともに同家から宮内省に献上されました。戦後は国の所有となっています。

刃長は一尺二寸六分(約六八・五センチ) 、または二尺二寸六分五厘(約六八・ 六センチ)で大切先で反り浅く、表裏に力樋に太い添え樋がある。板目肌立ち地沸えのついた地鉄に、五の目まじりの彎れ刃を焼く。二重刃・砂流し・湯走りなどがある。中心には差し表に「朝倉籠手切太刀也 天正三年十二月」裏に「右幕下御招上 大津伝郎拝領」と切り付け銘がある。

参考文献:日本刀大百科事典

写真:刀剣名物帳「籠手切正宗」

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