日本刀の世界 ~日本の様式美~

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【刀剣紹介】夫馬正宗

夫馬正宗

享保名物帳』所載、相州正宗在銘の短刀です。もと豊臣の家臣・夫馬甚十郎所持としたものがありますが、甚次郎または甚二郎が正しいです。夫馬は「夫間」とも書きます。木間としたものもありますが、不間の誤写で夫間の誤記です。夫間甚次郎は豊臣の馬廻り役で、文禄の役には肥前名護屋城に駐屯していました。関ヶ原合戦で西軍に加担し、浪々の身になったため、本刀を手放すことになりました。

本阿弥光甫がまだ二十のころでしたが、出入りの加州前田家にお買い上げを求めました。同家では京都藩邸詰めの黒坂吉左衛門に命じ、本阿弥本家の光室や光甫の父・光瑳の意見を徴したところ、出来や銘はいいが、剣形も彫物も拙く、大きな刃こぼれもある。お買い上げはご無用、という返答でした。

しかし光甫が、砥ぎ直せば名刀になる、と勧めたので、判金七十五枚で買い上げました。光甫が砥ぎ直すと、光室が驚くほど良くなっていましたが、藩主利常は意に満たないものがあったとみえ、光甫に五百枚で売るよう命じました。奥州会津藩城主・加藤明成に見せたところ、明成は本阿弥光室に相談して、四百枚なら申し受けよう、と返事しました。利常は承知しませんでしたが、他に買い手もつかないので、四百枚でよろしい、と折れてきました。ちょうどそのとき明成から、五百枚でよろしい、という書面が届きました。それで光甫は中を取って四百三十枚で譲り渡しました。四百五十枚との説がありますが、それは誤りです。

加藤明成は老臣・堀主水との争いで、寛永二十年(一六四三)に領地を召し上げられました。その代わり、嫡子明友に石州安濃一万石、ついで江州水口二万石を与えられました。その子明英は元禄五年(一六九二)に、本刀を本阿弥本家にやって、金三百枚の折紙を付けさせました。元禄の末またやってところ、七千貫といってきました。それでは少しの格上げに過ぎないため新しく折紙はつけませんでした。そのため『享保名物帳』にも三百枚のまま記載されています。

以後、明治まで同家に伝来しました。明治天皇が愛刀家というので明治五年に天皇に献上しました。明治二十年ごろ、侍従の富小路敬直は天皇の命により、刀剣の真偽良否を審査することになりました。本刀には光甫が大いに手を加えたにもかかわらず、本阿弥家の『留帳』にも区より八分(約二・四センチ)ほど上に刃こぼれがある。差し裏の梵字近く、刃縁寄りに小さな疵があり、それより八分ほど下に、刃がらみがある、と記載されています。明治になると、梵字と腰樋との間に、ふくれが破れ、大きな疵になっていました。『享保名物帳』にも在銘だというだけで、不出来な刀、とあります。

本阿弥光甫は、銘はよろしい、と言っているが、明治の審査では大竹審査員が銘を不可とし、京の信国だろう、と発言しました。今村長賀もそれに賛成し、たとえ正宗であっても、こんな大疵物は除外すべきだ、と主張しました。竹中公鑒のような本阿弥家出身は、もちろん反対しましたが、結局「番外」となりました。つまり、審査に合格したものは番号を付けて内庫に保存することになったが、夫馬正宗は番号のつかない、番外になったということです。

刃長は八寸九分五厘(約二七・一センチ)で、平造り、真の棟。差し表に丈競べの二筋樋、裏に梵字と腰樋がある。地鉄は板目肌。刃文は匂いの締まった小彎れに飛び焼きや湯走りがある。鋩子は中丸、返りは浅い。中心は先を少し詰め、目釘孔二個。「正宗」と二字銘。竹屋流の目利きでは、この種の「宗」の字や、中心尻の格好は、正宗の初期銘とされている。拵えの金具は、夫馬甚次郎の依頼で埋忠寿斎が作った。はばきは金無垢の台付きで「片岡権六」と銘がある。

参考文献:日本刀大百科事典

写真:刀剣名物帳「夫馬正宗」

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