日本刀の世界 ~日本の様式美~

日本の伝統文化である日本刀の刀工・刀鍛冶、名刀、刀剣書籍など

【刀剣紹介】本庄正宗

日本の美、日本刀

まだ腰に刀を差していた時代、日本刀は自分の身を守るためだけではなく拵えの装いや粋な刀装具を周囲に見せ、その刀を差す武士の品格を表していました。また、現代のように自身を彩るものは多くなく、腰に差す刀剣でその人のお洒落さをも表していたといいます。そんな千差万別ある日本刀を紹介していきます。

本庄正宗

享保名物帳』所載、相州正宗極めの太刀です。もと越後上杉家の重臣・本庄越前守重長が所持していました。出羽庄内の大宝寺城主・大宝寺義興に嗣子がなかったため、重長の次男・千勝丸義勝を養子にもらいました。ところが、天正十五年(一五八七)十月、義興の妹婿である酒田の東禅寺城主・東禅寺筑前守は、山形城主・最上義光と図って庄内を奪い、義興を殺してしまいました。養子の千勝丸は危うく難を逃れ、重長のもとに逃げ帰りました。

憤激した重長は翌十六年(一五八八)に兵を催して庄内に打ち入り、八月、東禅寺・最上連合軍を千安河原で撃破しました。千安川は地安川とも書き、青龍寺川から分かれ、大山川に注いでいる小川です。戦場となったのは鶴岡城の北西、約三キロの地点、つまり千安から中野京田にわたる地域でしたので、この合戦を千安中野の合戦とも、またこの付近を十五里原ともいうので、十五里原合戦ともいいます。

東禅寺筑前守の弟・右馬頭光安は味方の敗北を知ると、右手に血刀、左手に味方の首をひっさげ、東禅寺右馬頭を討ち取ったり、と叫びながら本庄勢の中を駆け抜けました。そのとき、本庄勢から怪しまれると増援にきている黒川の郷土、または重長の被官・大浦民部などと偽名を名乗ったといいます。重長に近寄ると、掲げていた生首を重長に投げつけると同時に、重長の頭上めがけて斬りつけました。光安の太刀は重長の兜を斬り削ぎ、さらに鎧の背の受け筒鉄の口金をはすに斬り割っただけ、ともいいます。しかし、兜の吹き返しを斬り割り、さらに左の小耳へ切りつけたとも、兜の筋を削り、さらに左の耳際へ二寸(約六・六センチ)ほど切り下げ、こめかみに達したとも、兜の左の吹き返しを斬り割り、さらに眼尻から顎にかけて傷を負わせたなど多数の説があり、負傷したのは確かなようです。しかし、重長はそれをものともせず、傍らの薙刀を取って光安を斬り伏せた、といいます。とにかく、光安の計画は失敗しました。

重長は右馬頭の首とともに、その佩刀を主君の上杉景勝に提出しましたが、佩刀の処置については諸説あります。景勝は本刀を重長に戦功として与えたとも、景勝が召し上げ、のち豊臣秀吉に献上したとも、重長が秀吉に献上したとも、重長より豊臣秀次に献上したとも、秀次が重長より金十三枚で召し上げたとも、伏見城普請のため上杉家から派遣されていた重長は金策のため手放し、本阿弥家が本刀を見て、判金二十五枚で召し上げたとも、景勝が家康に献上したともいいます。

しかし、重長は十五里原合戦の勝利により、大宝寺家を継いだ千勝丸を上杉景勝の許しを得ないで秀吉に拝謁させたため、景勝の怒りに触れ一時越後を立ち退いたり、景勝が会津に入城し、秀吉の命により千勝丸の領地を没収したとき、重長に不穏な行動があったため秀吉の怒りを買い、大和に幽閉されたりしました。そのときの金策のために本刀を手放したとも考えられます。

東禅寺右馬頭から分捕ったあと、重長・景勝のどちらかが所蔵していたにせよ「右馬頭」太刀と名付け、秘蔵していました。長さも初めは三尺八寸(約一一五センチ)、三尺三寸(約一〇〇センチ)または二尺七寸(約八一・八センチ)あったのを、景勝が二尺五寸(約七五・八センチ)に磨りあげさせたといいます。ただし、長さは二尺一寸五分五厘(約六五・三センチ)が正しいが、うぶ中心、目釘孔一つとなっているので磨り上げたことは事実です。

豊臣秀吉のもとにあった時分、砥ぎに出したところ研ぎ師が偽物と取り替えて差し出しました。腰物係はそれに感づかなかったが、秀吉が看破した、という逸話もあります。秀吉が本刀を島津義弘に贈ったという説や関白秀次から徳川秀忠がもらったのを島津義弘に贈った、という説などもあります。

しかし、事実は秀吉逝去の翌年、つまり慶長四年(一五九九)正月九日、島津義弘聚楽第に登ったとき、五大老徳川家康前田利家毛利輝元宇喜多秀家上杉景勝)が義弘の泗川における戦勝を祝して、本刀を贈ったものです。その後、徳川家康に献上すると、家康は紀州頼宜がまだ常陸介と称していた頃、本刀を与えたとも、家康の遺物として頼宜へ贈ったともいいます。

頼宜は寛文七年(一六六七)六月一日、隠居の御礼として将軍家綱へ献上しました。家綱は延宝八年(一六八〇)五月七日、館林宰相・綱吉を養嗣とし、本刀を譲りました。八代将軍吉宗は長子・家重に将軍職を譲ることに決し、延享二年(一七四五)九月二十五日、本刀を家重に譲りました。家重は宝暦十年(一七六〇)五月十三日、十代将軍家治へ譲りました。

家治の死去により天明六年(一八八六)、十一代将軍家斉へ、家斉は天保八年(一八三七)四月二日、十二代将軍家慶へ、家慶の死去により、嘉永六年(一八五三)六月、十三代将軍家定へ、家定の死去により、安政五年(一八五八)七月、十四代将軍家茂へ、家茂の死去により、慶応二年(一八六六)八月、十五代将軍慶喜へ、慶喜大政奉還により明治元年七月、後継者の家達へ本刀を譲りました。

以上のように、本刀は将軍職に就くときのお譲り道具であって、御腰物台帳を見ても「御代々御譲」の筆頭に記載されています。なお、元文三年(一七三八)正月十一日より、黒書院における正月の床飾りにも本刀をする決まりとなっていました。そういう宝器であるため、本刀を砥ぎ直すときは城中に砥ぎ場が特設されました。四方にしめ縄を張り、本阿弥家の者は麻裃着用で作業しました。なお、本庄正宗は塵を吸ってしまう、という神秘的な噂さえありました。

昭和十四年五月二十七日付で国宝に指定されていましたが、終戦進駐軍によって持ち去られ、現在もなお行方不明です。

刃長は幕末に二尺一寸五分(約六五・一五センチ)になっていた。反りの浅い鎬造りで切先伸びる。激戦の名残りとして、刃こぼれや棟に切り込みの疵がある。地鉄は小板目肌に地景走り、地沸えつく。刃文は五の目乱れが大小入りまじり、金筋かかる。鋩子は乱れ込み、小丸尖り、中心は大磨り上げ、目釘孔一個、無銘。

拵えは家康当時の打ち刀拵えで、目貫は三双の色紙丸桐で後藤宗乗の作。笄も色紙丸桐で、耳は金、後藤祐乗の作。小柄は色紙桐八つ、後藤光乗の作。小刀は吉門の作。柄は鮫の黒塗り。縁と鐔は赤銅色紙菊と桐で、後藤徳乗の作。はばきは上下とも金無垢。切羽・鵐目も金無垢。柄は藍革で巻き、下緒は紫色。鞘は蠟色塗りだった。

参考文献:日本刀大百科事典

写真:刀剣名物帳「本庄正宗」

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