【刀剣紹介】大阪長銘正宗
日本の美、日本刀
まだ腰に刀を差していた時代、日本刀は自分の身を守るためだけではなく拵えの装いや粋な刀装具を周囲に見せ、その刀を差す武士の品格を表していました。また、現代のように自身を彩るものは多くなく、腰に差す刀剣でその人のお洒落さをも表していたといいます。そんな千差万別ある日本刀を紹介していきます。
大阪長銘正宗
『享保名物帳』焼失之部に所載の短刀です。もと細川幽斎所持だったものを豊臣秀吉に献上しました。秀吉も珍重したとみえ「一之箱」に入れてありました。秀頼は慶長十七年(一六一二)正月、埋忠寿斎に命じて金具を造らせました。それから二年後、つまり冬の陣のおこるまえ、秀頼は高屋七郎兵衛に本刀と手紙を持たせ、薩摩の島津家久を招きましたが家久はそれを拒絶しました。そのため、本刀は再び大阪城の「一之箱」に納まりましたが、次の夏の陣で兵火にかかりました。徳川家康は焼け跡から出てきた本刀を名古屋まで持ってきましたが、おそらく下坂康継が、これは焼き直しが利きません、と言ったのでしょう。そのまま尾州徳川家に残置され、現在に至っています。
刃長は『享保名物帳』に八寸六分(約二六・一センチ)とある。これは『名物控』に八寸六分と誤記されているのを、そのまま踏襲した。実際は『木屋押形』に八寸二分(約二四・八センチ)または『本阿弥光徳刀絵図』や『埋忠銘鑑』に八寸三分(約二五・一センチ)とあるのが正しい。平造り、直棟。刃文はもと直刃調で先に行くに従い、乱れが大きくなり、皆焼に似ていた。中心は少し区送り、目釘孔二つ、鑢目は筋違い。銘は差し表に「相州住正宗」裏に「嘉暦三年八月日」ときる。
刀号はこの銘に因んだものですが、昔は「長銘ノ正宗」と呼んでいたようです。千利休が織田信長から拝領した「宗易正宗」も長銘で大阪城にありましたが、別物です。
参考文献:日本刀大百科事典
写真:刀剣名物帳「大阪長銘正宗」