日本刀の世界 ~日本の様式美~

日本の伝統文化である日本刀の刀工・刀鍛冶、名刀、刀剣書籍など

【刀剣紹介】大島行光

日本の美、日本刀

まだ腰に刀を差していた時代、日本刀は自分の身を守るためだけではなく拵えの装いや粋な刀装具を周囲に見せ、その刀を差す武士の品格を表していました。また、現代のように自身を彩るものは多くなく、腰に差す刀剣でその人のお洒落さをも表していたといいます。そんな千差万別ある日本刀を紹介していきます。

大島行光

『享保名物帳』所載の脇差です。もと大島茂兵衛光政が所持していました。光政は大島雲八光義の次男です。豊臣秀吉より千石を与えられていたので、関ヶ原合戦には弟光俊とともに伏見城攻めに加わりました。しかし父と兄光成は徳川方についていたので、その勲功と引き換えに光政らの罪を赦してもらいました。慶長九年(一六〇四)に父の遺領のうち、四千七百十石を兄から頒けてもらうまでは不遇の身でしたので、その間に本刀を手放したのでしょう。その後、一万石の旗本・加々爪甲斐守直澄の所蔵となっていたとみえ、本阿弥光由を介して、埋忠明甫に金具の調製を依頼してきました。寛永十九年(一六四二)八月二十六日に完成しました。
その話を本阿弥から聞いたのであろう会津四十万石の太守・加藤民部少輔明成から懇望されたとみえ、同年極月二十三日に金二百枚で売りました。これは光由の父・光室が金百枚の代付けをしていたので、ちょうど二倍に売れたことになります。明成は翌年(一六四三)に会津四十万石を召し上げられ、子明友にわずか一万石という転落ぶりでしたが、本刀だけは同家に伝来していました。しかし、現在は消息不明です。
刃長は一尺一寸五厘(約三三・五センチ)で平造り。差し表に鉾と梵字、裏に二筋樋と梵字ともいう。中心はうぶ、目釘孔四個。差し表に「行光」、裏に「本阿(花押)」と光室の朱銘があった。

参考文献:日本刀大百科事典