日本刀の世界 ~日本の様式美~

日本の伝統文化である日本刀の刀工・刀鍛冶、名刀、刀剣書籍など

【刀剣紹介】稲葉志津

日本の美、日本刀

まだ腰に刀を差していた時代、日本刀は自分の身を守るためだけではなく拵えの装いや粋な刀装具を周囲に見せ、その刀を差す武士の品格を表していました。また、現代のように自身を彩るものは多くなく、腰に差す刀剣でその人のお洒落さをも表していたといいます。そんな千差万別ある日本刀を紹介していきます。

稲葉志津

『享保名物帳』所載の短刀です。本刀はもと「稲葉郷」の所持者・稲葉勘右衛門重通の五男・蔵人道通が所持していました。道通ははじめ伊勢国岩手城主、のち関ヶ原合戦の功により同国田丸城主となりました。そのころに道通は本刀を徳川家康に献じました。家康は本刀を甲州付中城主・浅野紀伊守幸長に与えました。浅野家から再び献上し、慶長五年(一六〇〇)六月六日に豊前中津川城主・黒田筑前守長政が家康の養女栄姫と縁組みのさい、家康は本刀と則重の刀を婿引き出としました。長政は喜んで、さっそく京都の御用商人、三木了清・大文字屋養清の両名に命じ、刀袋を織らせました。それには「稲葉志津」の四字を織り出してありますが、その文字は本阿弥光徳に書かせたもの、といわれています。しかし『黒田御家御重宝故実』にはもう一つの異説を唱えています。
黒田長政の長男・右衛門佐忠之は、元和元年(一六一五)三月の大阪城攻めには間に合わなかったが、家康・秀忠両人の前で乗馬を台覧に供する光栄に浴した。(高貴な人、ここでは家康らに乗馬を見てもらい、素晴らしいと褒め称えられたこと)そのときの褒美として本刀を拝領した、というのがあります。しかし、そのときの拝領刀は粟田口則国の脇差、とするのが正しいようです。
本刀については、さらにもう一つの異説があります。それは本阿弥家の折紙『留帳』の慶長十六年(一六一一)起筆のものに「発丑十二月廿五日 浅野紀伊守遺物ニ上ル」と記録されていることです。「発丑」とあるのは慶長十八年(一六一三)で、浅野紀伊守幸長が同年八月二十五日没すると、嗣子がなかったため、弟の但馬守長晟が同年十月十八日、兄の跡をつぐべく命じられました。長晟はすでに備中にて二万四千石を領する大名でした。その後始末にも日数を要したので、兄の遺物として本刀を家康に献上したのは十二月二十五日になった、と推測できます。すると、黒田家が本刀を拝領したのは慶長五年(一六〇〇)ではなく、もっと後でなければなりません。ここで前述の『黒田御家御重宝故実』にある異説が復活してくることになります。
刃長は八寸三分五厘(約二五・三センチ)で平造り、わずかに内反りあり、真の棟。地鉄は板目肌流れ、肌立つ。刃文は五の目乱れ。中心は生ぶ。もと「志津 光徳(花押)」と朱銘があったが現在は剥落し判読不能。
戦後、黒田家を出て、重要文化財に指定されています。

参考文献:日本刀大百科事典
写真:刀剣名物帳「稲葉志津」

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