日本刀の世界 ~日本の様式美~

日本の伝統文化である日本刀の刀工・刀鍛冶、名刀、刀剣書籍など

【刀剣紹介】池田貞宗

日本の美、日本刀

まだ腰に刀を差していた時代、日本刀は自分の身を守るためだけではなく拵えの装いや粋な刀装具を周囲に見せ、その刀を差す武士の品格を表していました。また、現代のように自身を彩るものは多くなく、腰に差す刀剣でその人のお洒落さをも表していたといいます。そんな千差万別ある日本刀を紹介していきます。

池田貞宗

『享保名物帳』所載の脇差です。もと京都の商人・蓮池常知が所持していたものを本阿弥光二の取次で、細川幽斎が金二枚で求め、これを「中務殿」に伝えました。この中務殿について『名物帳』には幽斎の子とする説と孫とする両説を掲げていますが、前説が正しいです。なぜなら、中務殿はこれを池田三左衛門輝政に黄金百枚で売っていますが、孫の中務大輔立孝は輝政の死亡時にはまだ誕生していなかったためです。したがって、中務殿は幽斎の四男・中務少輔孝之、のち休斎と号した人でなければなりません。輝政は孝之から黄金百枚または二千貫で求め、幽斎貞宗と名付けました。その時期は明らかではありませんが、慶長十四年(一六〇九)極月、埋忠寿斎に命じて拵えを作らせています。これは従来の拵えを廃し、輝政好みのものを新調させたものであろうから購入したのは、その直前のことと思われます。
これを将軍秀忠に献上したのは、慶長十八年(一六一三)といいますが、輝政は同年正月二十五日に姫路城で逝去しているため、十七年(一六一二)の誤りでなければなりません。その年の八月二十三日に秀忠から蜂屋郷を拝領しているため、その返礼として幽斎貞宗を献上したことになります。寛永六年(一六二九)四月二十九日、前将軍秀忠が加賀藩主・前田利常の別邸に臨んだ時、本刀を与えました。利常が金百枚で買ったという説は誤伝です。以後、前田家に襲蔵され、加賀本阿弥家により数年おきにお手入れが行われました。戦後、同家を出て、現在は重要文化財に指定されています。
刃長が一尺二分(約三〇・九センチ)で平造り、表裏に護摩箸。板目肌、柾まじり、地沸えよく付く。刃文は小彎れ、匂い締まる。中心は生ぶ、無銘。

参考文献:日本刀大百科事典
写真:刀剣名物帳「池田貞宗」

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