日本刀の世界 ~日本の様式美~

日本の伝統文化である日本刀の刀工・刀鍛冶、名刀、刀剣書籍など

【偉人の刀剣】淀君の刀

淀君の刀 豊臣秀吉の愛妾・淀君所蔵の刀剣です。昭和十三年十一月、某家の売立に出たものです。 刃長八寸五分(約二五・八センチ)、表裏に刀樋と添え樋をかく。地鉄は板目肌に地沸えつく。刃文は直刃、鋩子小丸。中心はうぶ、「来国次」と三字銘。 宝永五年(…

【刀剣紹介】盲腸来国次

盲腸来国次 「来国次」と在銘の短刀です。もと一尺(約三〇・三センチ)以上ありました。それでは脇差の部に入り値段が安いです。一尺以下ならば短刀の部に入り値段も高くなるので、東京在住の故M刀匠に依頼、中心の靴の下を二寸(約六・〇六センチ)ほど切除し…

【刀剣紹介】鹿沼来

鹿沼来 秋田城主・佐竹家伝来、京の来派の作です。ただし、個名は不明です。天正十八年(一五九〇)の小田原落城の際、鹿沼城(栃木県)の留守を守っていた鹿沼太郎は寄手の佐竹義重に降伏、この刀を贈ったものらしいです。鹿沼太郎は大力の勇士だったので上杉家…

【刀剣紹介】亘理来国光

亘理来国光 もと奥州伊達家の重臣・亘理兵庫頭入道安斎の遺物として、伊達家に献上したものです。伊達政宗が登城のときの差料です。六代目の宗村もこれを愛好しました。 刃長二尺四寸一分五厘(約七三・二センチ)、延宝九年(一六八一)卯月三日付の代千五百貫…

【刀剣紹介】鑓切り

鑓切り 天文(一五三二)のころ、越前一乗谷城主・朝倉孝景の弟、九郎左衛門景紀所持、来国行作の太刀です。 刃文は広直刃。うぶ中心で、佩き表に「国行(花押)」、と在銘。異名は槍の柄を切り落としたことに、因んだものであろう。 参考文献:日本刀大百科事典

【刀剣紹介】矢目国俊

矢目国俊 中心の差し表、目釘孔のうえに、矢目状の孔のある来国俊です。ただし、その孔は裏に通っていません。それは平造りの短刀で、差し表に「来源国俊 主(生)年七十八」、裏に「文保元年丁丑七月日」、と銘があります。その押形をみると、銘振りが正真の…

【刀剣紹介】三浦来国光

三浦来国光 駿河御分物として尾州徳川家へ分与された脇差です。拵え付き、金五枚の折紙がつきます。本多上野介正純が徳川家康に献上したもので、刀号の三浦は、下総(千葉県)佐倉城主だった三浦監物重成のことでしょう。 参考文献:日本刀大百科事典

【刀剣紹介】松浦国行

松浦国行 駿河御分物として、尾州徳川家へ分与された太刀です。加藤清正が徳川家康に献上したものです。拵え付き、金二十五枚の折紙つきます。国行は来派か当麻派か不明です。 参考文献:日本刀大百科事典

【刀剣紹介】増田来国次

増田来国次 『享保名物帳』焼失之部所載、来国次作の短刀です。もと豊臣秀次所持でした。秀次の 生存中か、自害後か、不明であるが、文禄(一五九二)年中、研師の木屋が入手して、豊臣秀吉へ金八枚で売りました。 秀吉が逝去後、遺物として、大和郡山城主・増…

【刀剣紹介】不動国行

不動国行 1.『享保名物帳』焼失之部所載、来国行作の小太刀、初め足利将軍家蔵でした。天文二十三年(一五五四)、狩野介が相州康春に模造させた刀銘には、「相州住康春作 不動国行之写 天文廿三年二月日 狩野介所持」とあります。狩野氏は伊豆国田方郡狩野郷…

【刀剣紹介】吉田山城来国光

吉田山城来国光 駿河御分物として尾州徳川家へ分与された脇差です。拵え付きで、金二十五両の折紙つきます。古田山城とは、茶人で、一万石の領主だった吉田織部正の子で、名は重嗣です。織部正が豊臣秀頼に内通していたとして、元和元年(一六一五)六月十一日…

【刀剣紹介】豊後来国光

豊後来国光 寛永十八年(一六四一)八月、後の四代将軍家綱の誕生を祝して、勢州桑名城主・松平定綱が献上しました。本阿弥家の金八枚の折紙付きです。のち家綱はこれを陣刀にし、目貫・縁・鍔に葵紋を据えました。寛文三年(一六六三)正月、老中の阿部豊後守忠…

【刀剣紹介】豊後来国次

豊後来国次 『享保名物帳』追記之部所載、来国次作の短刀です。豊臣秀吉から豊後の大友に下さる、というから、大友宗麟が天正十四年(一五八六)四月、大坂にのぼり秀吉に援助を乞うた時、秀吉は脇差を与えています。それがこの来国次のはずです。徳川家康が文…

【刀剣紹介】人数国次

人数国次 阿波の細川家の重宝です。どこの国次か不明であるが、おそらく来国次の作でしょう。細川頼春が正平七年(一三五二)閏二月、楠正儀らの軍に敗れ、討死した時、たまたま家臣の町田・筒井・湯浅・河端らは、この太刀を携行し、上京中であったが、主君討…

【刀剣紹介】鎺国行

鎺国行 奥州仙台・伊達家伝来、無銘来国行の異名です。もと共鎺が付いており、それに「国行」と彫ってあったので、鎺国行の異名がつきました。天正十八年(一五九〇)六月九日、小田原城攻めの豊臣秀吉が、目赤鶴を捕えたという、伊達政宗の自慢の鷹を所望した…

【刀剣紹介】釣り金切り

釣り金切り 蔀を釣り上げている部金を切ったことによる刀の号です。 1.大和の千手院金王の作。 奈良の興福寺の門跡所蔵です。興福寺の僧がある神社へ参籠のとき、この太刀を抜いて出たところ、蔀の釣り金に当たり、それを切って落としたといいます。 2.来国…

【刀剣紹介】鷹匠切り

鷹匠切り 来国俊作、三尺一寸(約九三・九三センチ)の太刀です。足利将軍義教が鷹匠を、それで唐竹割りにしたが、体がしばしそのままで、手にした鷹も驚く様子がありませんでした。それで「鷹匠切り」と命名しました。その後、長州の大内持世が拝領し、家宝に…

【刀剣紹介】千貫国光

千貫国光 『本阿弥光悦押形』所載、来国光の在銘刀です。異名は昔、千貫の値段がついたことからの命名です。ただし、これには同名異物があります。 1.『継平押形』(昭和三年刊)に併掲されている『本阿弥光悦押形』に出ている押形では、目釘孔が四個あり、刀…

【刀剣紹介】三位来国次

三位来国次 差し裏に「三位」とある来国次の短刀です。徳川家康の差料という説は疑問であるが、将軍家の御物だったことは確かで、江戸城の「小ノ一ノ箱」に入れ てありました。寛永九年(一六二三)五十枚の折紙をつけました。その後、越前福井城主・松平忠昌(…

【刀剣紹介】塩河来国光

塩河来国光 『享保名物帳』所載、京の来国光の短刀です。もと江州佐和山城主・石田三成の臣・塩川志摩か、播州明石城主・塩川信濃守かの所持といいます。埋忠家で金無垢の二重鎺を作りました。現在もそれがついていて、上貝に「うめたゝ 寿斎 彦一入」と銘が…

【刀剣紹介】三斎来国次

三斎来国次 『享保名物帳』焼失之部所載、山城の来国次の作です。奈良から出たものを、細川三斎が求め、のち徳川家康に献上したものです。無銘を本阿弥光徳が来国次と極めたものです。 刃長九寸五厘(約二七・四センチ)。江戸城の刀剣台帳第七番、尤一の箱に…

【刀剣紹介】佐々木国行

佐々木国行 江州佐々木家重代、来国行の短刀の異名です。観音寺城主・佐々木義賢は元亀元年(一五七〇)八月、織田信長に降伏しています。そのとき信長に献じたのでしょう。堺の天王寺屋・津田宗及が天正八年(一五八〇)二月二十二日、京都において大小取り交ぜ…

【刀剣紹介】小林国行

小林国行 小林上野守の佩刀、来国行の作です。明徳二年(一三九一)十二月三十日、京都の内野の合戦で、小林上野守(修理亮重長)は、これで、大内左京大夫義弘の左手を二か所斬ったが、逆に薙刀を内かぶとに突っ込まれ、さらに片股斬り落とされ討死にしました。…

【刀剣紹介】小国行

小国行 『享保名物帳』焼失之部所載の太刀です。もと豊臣家の蔵刀で、二之箱に入れてありました。「小」国行というのは、同家には「新身国行」のような、もっと長い来国行の太刀があったので、それに対比しての称呼でしょう。 刃長は二尺五寸(約七五・八セン…

【刀剣紹介】大波国俊

大波国俊 木村重成の佩刀です。重成の姉婿・猪飼野左馬之助に送った元和元年(一六一五)四月六日付の手紙によれば、重成が十三歳で元服したとき、徳川家康がその祝いに、本田忠勝に持たせてやったもので、無銘ながら来国俊とされているものでした。討死の覚悟…

【刀剣紹介】新身国行

新身国行 もと尼子家の重代だったものを、天正五年(一五七七)播州上月城が陥り、尼子勝久が自尽するとき、山中鹿之助に与えました。そこに亀井玆矩が豊臣秀吉の密使として潜入してきたので、鹿之助は新身国行を玆矩に贈ろうとしたが、玆矩は辞して受けません…

【刀剣紹介】秋田国行

秋田国行 『享保名物帳』の焼失之部に記載されています。もと秋田城之介所持でした。越後高田城主・松平越後守光長から本阿弥家にきて、百五十枚の折紙を出したことが、慶安四年(一六五一)七月以後の控え帳に記載されています。その後、将軍家に献上、三千貫…

【刀剣紹介】乱れ光包

乱れ光包 『享保名物帳』所載です。ただし、原本にはなく、本阿弥長根が幕末に追記したものです。中堂来光包作の短刀です。もと前田家の重臣(五万石)・本多安房守政重所持、藩主・前田利常に献上されました。将軍綱吉の養女・松姫が、前田家の世子・吉徳に…

【刀剣紹介】戸川来国次

戸川来国次 『享保名物帳』焼失之部所載、来国次作の短刀です。もと備前庭瀬城主・戸川肥後守逵安所持し、将軍秀忠へ献上した 、ともいいますが、寛永六年(一六二九)四月二十九日、加賀の前田利常の別邸に、前将軍秀忠が来たとき、利常が献上しているとこ…

【刀剣紹介】桑山光包

桑山光包 『享保名物帳』所載の中堂来光包の短刀です。もと江州大津の住人が所持していました。それを大和で二万六千余石を領していた桑山伊賀守元晴が、千五百貫で買い上げました。元晴の子・貞晴は寛永六年(一六二九)早世しました。嗣子がなかったので知…