日本刀の世界 ~日本の様式美~

日本の伝統文化である日本刀の刀工・刀鍛冶、名刀、刀剣書籍など

【偉人の刀剣】山中鹿之介の刀

山中鹿之介の刀

中国の尼子氏の忠臣、いわゆる尼子十勇士の随一・山中幸盛所持の刀です。その第一は、新身国行でした。

そのほかに、「宗近」と在銘、二尺二寸八分(約六九・一センチ)の太刀で、直刃が少し乱れ、そのなかに半月形の打ち除けがあったので、半月丸という異名のついた、菊桐紋付きの糸巻き太刀拵えに入ったものがあった。時代の下がったものでは、「備前国住長船与三左衛門尉祐定作 山中鹿介脇指剣也 蛇江左京亮所持之」、と在銘、二尺一寸二分(約六四・二センチ)、五の目乱れで焼き出し、物打ちは皆焼になった佩刀がある。鹿之介は大男だった、というから、これを脇差にしていたとみえる。

なお、「伯耆国菊島住弓削新三郎正綱作 永禄十二年二月日 主山中鹿之助」、と在銘、刃長二尺五寸五分(約七七・三センチ)の刀がありました。鹿之助は永禄十一年(一五六八)十月、尼子勝久を擁して、雲州新山城に立てこもったから、そのころ造らせたことになります。そのほか、「備前州住長船藤兵衛尉藤原国光作之 天文八年二月吉日」と在銘、刃長二尺一寸二分(約六四・二センチ)、刀身に彫物のある刀も、鹿之助の差料と伝えられています。

参考文献:日本刀大百科事典

【偉人の刀剣】吉田松陰の刀

吉田松陰の刀

幕末の志士、教育家として有名な松陰の刀です。長州藩では五十七石余の微禄ではあったが、山鹿流兵学師範という家柄だったので、刀剣類もかなりあったはずです。松陰の肖像に描かれている脇差は、鍔がなく、柄糸を巻かない腰刀の形式になっています。

萩市松陰神社所蔵の大小は、松陰の生家・杉家から寄贈されたもので、小刀はやはり腰刀の形式になっています。中身は無銘で、大和の尻懸則長作と見えるものです。大刀は肥後同田貫正国の在銘で、肥後の志士・宮部鼎蔵と、差料を交換した事実があるので、それであろうといいます。

東京世田谷にある松陰神社所蔵の刀は、同社でご神体になっているが、短刀であるといいます。

昭和六十三年六月、萩市松陰神社に、カナダ・バンクーバーのR・E・アウターブリッジという医師が寄贈した脇差は、神戸で生まれた同氏が昭和四年、帰国するに際し、友人の藤田菜から餞別にもらったものです。中身には越後守包貞の偽銘があるが、刀袋には「吉田松陰好持之……藤田宝」と墨書した布片が付いています。

参考文献:日本刀大百科事典

【偉人の刀剣】吉田忠左衛門父子の刀

吉田忠左衛門父子の刀

赤穂義士、忠左衛門兼亮は郡奉行、その子・沢右衛門兼貞は蔵奉行でした。父子とも良い刀を持っていました。吉田家の足軽だった寺坂吉右衛門の記憶によれば、忠左衛門の大刀は備前長船祐定初代の在銘で、刃長二尺五寸(約七五・八センチ)、小刀は豊後高田の古刀で菖蒲造り、刃長一尺五寸(約四五・五センチ) 余、小ガタナは尾州信高の在銘、小柄は貝尽しの図だったといいます。

これに対して、大刀は島津の作で、刃長二尺二寸(約六六・七センチ)、小刀は広光の作で、刃長一尺八寸(約五四・五センチ)、という説があるが、島津は志津の誤写に違いありません。なお、大刀は濃州志津の作で、刃長二尺(約六〇・六センチ)、小刀は安光の作で、刃長一尺八寸(約五四・五センチ)、とする説もあります。昭和五十六年、アメリカ人の某氏が、吉武の作で、柄に「赤穂臣吉田兼亮」、と書いてある刀を、泉岳寺に奉納した、という新聞記事を見たが、寺坂吉右衛門の証言からみて、それは疑問視すべきです。忠左衛門は討ち入りのとき、大小のほかに槍を持っていきました。

子の沢右衛門の差料は、寺坂吉右衛門によれば、大刀は関孫六初代の作で、刃長二尺八寸(約八四・九センチ)余、小刀は近江守忠綱の作で、刃長一尺八寸(約五四・五センチ)余、小ガタナは尾州信高の作、小柄は武蔵野の図だったといいます。これに対して、大刀は水田国重の作で、刃長二尺九寸(約八七・九センチ)、小刀も同作で、刃長一尺八寸(約五四・五センチ)、とする説は信じがたいです。なお、討ち入りの時は、大斧を担いで行って、裏門を打ち破る、という大役を果たしました。

参考文献:日本刀大百科事典

【偉人の刀剣】淀君の刀

淀君の刀

豊臣秀吉の愛妾・淀君所蔵の刀剣です。昭和十三年十一月、某家の売立に出たものです。

刃長八寸五分(約二五・八センチ)、表裏に刀樋と添え樋をかく。地鉄は板目肌に地沸えつく。刃文は直刃、鋩子小丸。中心はうぶ、「来国次」と三字銘。

宝永五年(一七〇八)、本阿弥光忠の折紙つきで、千七百六十円で落札されました。

参考文献:日本刀大百科事典

【偉人の刀剣】淀屋辰五郎の刀

淀屋辰五郎の刀

元禄(一六八八)ごろ、大坂の豪商として知られた淀屋辰五郎所蔵の刀です。淀屋の五代目で、正しくは三郎右衛門といいます。宝永二年(一七〇五)五月、分を越えた豪奢や詐欺の罪をもって、闕所・所払いの刑に処せられました。

その時の没収品中、刀剣として筑前左文字・相州正宗・越中郷義弘などが十二腰、粟田口頼光(吉光?)・法光・法長(則長?)・三条宗近・国光・国利(国俊?)など、高値なものが百七十七腰あったともいいます。あるいは折紙のついた刀が七百二十腰、五両から百両までの刀は数知れずだったともいいます。

参考文献:日本刀大百科事典

【偉人の刀剣】森蘭丸の刀

森蘭丸の刀

蘭丸は濃州金山(岐阜県可児郡兼山町)城主・森三左衛門可成の三男です。織田信長の小姓となり、本能寺の変で、十文字の槍をもって奮戦したが討死しました。時に十八歳でした。その佩刀と称する刀を、子爵・三浦梧楼陸軍中将が入手していて、大正五年十月三日、東京美術倶楽部の売立で売却しました。刀の作者は不詳です。

参考文献:日本刀大百科事典

【偉人の刀剣】柳生連也の刀

柳生連也の刀

尾州徳川家の剣術指南役・柳生連也の蔵刀です。もっとも有名なのは、現在も尾張柳生家に伝来している大刀の「かごつるべ」と、小刀の「笹露」です。ついで「鬼の包丁」です。

前記三刀と同じ刀工の作で、「伊藤肥後守秦光代 重胴二以其歯タウリ 柳生氏利延所持之」と在銘、刃長一尺三寸七分(約四一・五センチ)の脇差があります。利延は連也の甥で、連也から柳生流の名跡を譲られた人です。この刀は銘文のとおり、その利延が作らせたものであるが、尾州徳川家のお刀台帳には、連也の差料の由、とあります。歯は刃、タウリは通りです。

同じく光代の作で、二尺二寸(約六六・七センチ)の刀が、尾張柳生家に現存します。これは連也の門人・本田七兵衛が、一代限りといって借用していたもので、その没後、柳生家に返還されました。光代の師匠は、江戸の石堂常光です。尾州徳川家に、「対馬守橘常光」と在銘、刃長一尺五寸四分(約四六・七センチ)の脇差が伝来しています。これは鞘書によれば、連也が注文して、郷義弘を模作させたものといいます。 常光の兄を出羽守光平といいます。これに連也が作らせた二尺五寸五分(約七七・三センチ)の大刀には、「平安城住人山城守一法長男出羽守源光平 於武州豊嶋郡江戸庄赤坂造之手時承応二年 柳生厳知所持之」、と長銘があります。厳知とは連也の初名で、時に二十九歳でした。

参考文献:日本刀大百科事典