日本刀の世界 ~日本の様式美~

日本の伝統文化である日本刀の刀工・刀鍛冶、名刀、刀剣書籍など

【偉人の刀剣】山岡鉄舟の刀

山岡鉄舟の刀

鉄舟は幕臣で、無刀流の開祖、のち子爵です。江戸開城に奔走した功を賞し、徳川慶喜からもらった名物・武蔵正宗は有名です。

無銘一文字極めの刀は、逆丁子乱れの寂しい、青江風の出来で、のち未亡人が、鉄舟創建の全生庵に寄贈、現存します。長曽祢興正、二尺三寸五分(約七一・二センチ)の差料は、江戸肥後拵えづきです。

鉄舟が川越(埼玉県)の勘次という博徒に与えた、永正(一五〇四)裏銘の和泉守兼定は、子分の一力がもらっていたところ、そのまた子分が持ち出して、人を刺しました。血のついたまま鞘に納めました。そのまま放置していたため、錆びついてしまいました。鞘を割り、手拭に巻いたまま、その後も使っていました。それが明治四十三年、芝の神谷町(港区)の古道具屋に出ていました。本堂蟹歩がそれを掘り出してきたところ、雑誌『刀剣と歴史』主幹・高瀬羽阜が取りあげ、代わりに関兼常の脇差と、南紀重国の短刀をくれたといいます。

参考文献:日本刀大百科事典

【偉人の刀剣】宮本武蔵の刀

宮本武蔵の刀

天流の祖・宮本武蔵所持の刀です。武蔵が正保二年(一六四五)五月十九日病没すると、二天流二世を継いだ寺尾信行は、武蔵差料の大小を、武蔵の養子で、豊前小倉藩重臣宮本伊織に送ったところ、小刀だけを留めおき、大刀は信行に返してきました。明治になって、寺尾運記はこれを戸下温泉主人・長野菜に譲りました。大正になって、長野家の売立のさい、桑原征平が愛人・千菊(芸者)の名で落札しました。その後、甲斐軍蔵氏が入手し、現在に至ります。

刀身は「和泉守藤原兼重」と在銘。刃長二尺七寸(約八一・八センチ)。刃文は広直刀。拵えは、いわゆる武蔵拵え。武蔵は臨終にさいし形見として、兼重の大刀を長岡(松井)佐渡へ、小刀を播州の郷里に送った、という説は誤り。

武蔵は、のちに武蔵の墓碑銘を書いた泰勝寺住職・春山和尚にも、一刀を寄進していました。同寺は明治四年廃寺になったので、仙庵和尚はこれを同五年二月、子飼(熊本市内)の細川興昌氏(のち男爵)に贈りました。同家ではその返礼として、備前長船勝光の半太刀を届けました。武蔵の旧蔵刀は、刃長二尺二寸(約六六・七センチ)ほど、「大和国国宗 大宝二年八月日」、と在銘でした。すると、偽銘だったことになります。 武蔵が吉岡伝七郎らを斬った、という刀が二振りあります。一つは細川藩の重臣・沢村大学へ、遺物として自作の鞍とともに贈られたもので、伯耆安綱作、刃長三尺八分(約九三・三センチ)、糸巻き太刀拵えつきです。のち津村家蔵、戦後は行方不明です。そのほかに、「了戒」と二字銘の太刀があります。これは沢村大学の養子・友好が、武蔵の門人だったので、臨終に際し自作の鞍とともに贈ったというものです。大正六、七年ごろ、それを細川家の家扶・高島義恭が入手しました。池辺義象がその由来を箱書きしています。

刃長二尺八寸一分(約八五・一センチ)、地鉄は小杢目肌に柾目まじり、刃文は直刃に、小五の目足入り、鋩子焼き詰め、うぶ中心、目釘孔二個 。以上のほかに、「兼久」と二字銘の刀や、無銘で「吉岡斬り」と称する刀も現存する。

享保名物帳』に載っている「武蔵正宗」は、宮本武蔵所持という説もあるが、これには異説が多いです。 河内守永国がまだ未熟なころ、自作刀の切れ味を見ようと辻斬りをしました。相手が宮本武蔵だったので、見事失敗しました。それが縁で武蔵の愛顧をうけるようになった、という話は熊本に、すでに幕末にはあったようです。しかし、永国の年齢からいって、それはあり得ないことです。なお、永国が試し斬りしようとした相手は、寺尾信行の六男・郷右衛門勝行だった、という説があります。しかし、これも両人の年齢差からみて、あり得ないことで、後人の創作でなければなりません。

俗説としては、秋山十郎教定という強盗の頭を斬ったのは志津三郎兼氏の太刀、官女に化けた悪狐からもらったのは、郷義弘の短刀、佐々木厳柳との試合で、右手に持ったのは兼氏の大刀、左手に持ったのは相州貞宗の小刀などであるが、もちろん創作です。あるいはその時の木刀は、大が二尺五寸(約七五・八センチ)、小が一尺八寸(約五四・五センチ)だった、との説があるが、それも信じがたいです。

参考文献:日本刀大百科事典

【偉人の刀剣】三島由紀夫の刀

三島由紀夫の刀

昭和四十五年十一月二十五日、東京の市谷自衛隊に突入したとき所持し、かつ介錯に使われた日本刀です。

刃長二尺三寸五厘(約六九・八センチ)、軟らかい地鉄で、三本杉に近い五の目乱れの刃文。無銘で、古い小札では、「後代兼元」という鑑定になっていた。

当時の報道によると、神奈川県警本部で押収していたものを、競売に付した時、某刀剣商が五万円で落札しました。それを大盛堂書店主・船坂弘氏が二十万円で買ったといいます。

昭和四十年ごろ、それを刀剣商・佐藤勲氏に託して、日本美術刀剣保存協会の審査に出し、「後代兼元」として、「貴重刀剣」の認定をうけました。船坂氏によると、刀剣界でいう有名な、古刀の関の孫六兼元ではなく、寛永(一六二四)ごろの赤坂住、源一郎兼元くらいの「新刀」だったといいます。すると、愛刀家が愛蔵するに値しない凡刀であるが、三島がそれを古刀の孫六兼元と、同価値のように勘違いしていたようです。その証拠に、それに陸軍の軍刀拵えをつけ、昭和四十五年十一月、東京の東武デパートで開かれた「三島展」に出品していました。それから数日後、三島はそれを佩用して、市谷自衛隊に突入、東部方面総監・益田兼利陸将を監禁、それで負傷させたのち、総監の面前で、海軍将校用の短剣で切腹しました。会員の森田必勝が軍刀介錯したが、二度斬っても首は落ちませんでした。三度目に、会員の古賀浩晴が代わって、ようやく首を斬り落としました。ついで森田が切腹すると、古賀が同じく軍刀介錯しました。

参考文献:日本刀大百科事典

【偉人の刀剣】松平外記の刀

松平外記の刀

江戸城の西丸御納戸役、三百俵取りの松平忠順の枠で、西丸御書院番松平外記忠寛が、文政六年(一八二三)四月二十二日の夜、同僚に刃傷に及んだ時の刀です。当時の書院番には素行不良のものが多く、下僚に対して嗜虐的行為、つまりいじめが度を越えていました。それに耐えかねた外記は、彼に脇差をぬき、本多伊織・沼間右京・戸田彦之進を即死させ、間部源十郎に重傷、神屋五郎三郎に軽傷を負わせたあと、喉を突いて自殺しました。三十三歳でした。大奥の老女だった外記の伯母が、いち早くその事情を将軍に告げたので、斬られた者の家は断絶となったが、外記の父・頼母に対しては、何のお咎めもありませんでした。

刃傷刀については、平造りの関物で、刃長一尺三寸(約三九・四センチ)という説、無銘で刃長一尺二寸(約三六・四センチ)、鍔・縁頭は鉄、目貫は鳥の色絵、柄鮫は白で、柄糸は黒色、切羽・鍔は銀着せ、鞘は鼠色、下緒は黒糸だったとの説、無銘 の村正で、刃長一尺八寸(約五四・五センチ)とする説などがあります。外記が村正の大脇差を持っていたので、父の頼母が、村正は血を見ねば鞘に納まらぬ、というから、差料にするは無用、と戒めていたが、当日はその村正の鉄拵えを指していったともいうが、刃傷より数日前、刀屋に長脇差を数振り持って来させ、その中から切れそうなのを選び、立って切先が鴨居に当たらないかどうか、確かめたのち買い入れたともいいます。

外記の子孫の語るところによれば、誰の作かは判らないが、菩提寺である深川の霊巌寺に納めました。明治十四年の大火で、同寺が焼失した時、刀傷刀も焼け身となり、屑鉄屋に売り渡されました。

この事件は明治十六年、『名末世千代田松』という外題で、芝居になり大衆に知られるに至りました。それを狙って、正真の虎徹に「松平外記所持」と所持銘を入れた偽物も作られました。

参考文献:日本刀大百科事典

【偉人の刀剣】真柄父子の太刀

真柄父子の太刀

北国一の豪傑、朝倉義景の臣・真柄十郎左衛門と、その子・十郎三郎所持の大太刀です。父子とも元亀元年(一五七〇)六月二十八日、姉川の合戦において、徳川方に討たれました。十郎左衛門の太刀は五尺三寸(約一六〇・六センチ)、十郎三郎の太刀は四尺七寸(約一四二・四センチ)ともいいます。文亀(一五〇一)のころ、越前に大力の士がいました。備前長船に行って、祐定に長さ五尺三寸(約一六〇・六センチ)、幅二寸三分(約七・〇センチ)、重ね五分五厘(約一・七センチ)の大太刀を注文しました。祐定は祐清・祐包と協力して打ち上げました。試し斬りしたところ、四つ胴を落としました。それがのち真柄十郎左衛門の佩刀になりました。十郎左衛門討死後、刀身は行方不明になったが、鞘だけは九鬼家に伝来し、寛政(一七八九)ごろは、確かに同家にあった、という話があるが、信じがたいです。なお、十郎左衛門の佩刀と称する大太刀は、熱田神宮にもありました。

なお、加賀の白山比峰神社にも、十郎左衛門佩刀と伝えられる大太刀があります。

刃長六尺一寸五分(約一八六・三五センチ)、総長八尺四寸八分(約二五七センチ)、棒樋をかく。刃文は五の目乱れ。加州の「行光」在銘。前田利常がこれに付けさせた金具には、「寛永五戊辰曆十一月吉日 加州金汉住後藤才次郎吉定」、と銘がある。

十郎三郎所持の槍は、三角穂で長さ一尺二寸(約三六・四センチ)、幅一寸四分五厘(約四・四センチ)、中心に「真柄十郎三郎直基造之 永禄七年八月日」とあり、羽州庄内藩士の家に伝来していた。

参考文献:日本刀大百科事典

【偉人の刀剣】本多平八郎の刀

本多平八郎の刀

徳川家康の四天王のひとり、本多忠勝の刀です。天正十二年(一五八四)四月、長久手の戦のさい、織田信雄は忠勝の勇戦ぶりに感じ、法城寺の刀を与えました。同十四年(一五八六)四月、豊臣秀吉の妹・朝日姫と結婚した徳川家康が、祝儀の使者として忠勝を送ったところ、秀吉は喜んで貞宗の短刀を、忠勝に与えました。忠勝の持ち槍 は、「蜻蛉切り」の名で有名です。

忠勝の嫡孫・忠刻は、有名な千姫の夫であるが、父に先立ち、三十一歳で早死しました。その跡をついだ弟・政朝の子孫が、幕末まで三州岡崎城主でした。明治十五年、本多家では刀など伝来品を売りに出しました。東京の尾張屋新助が長持ちを買って帰り、よく見ると、下のほうに抽出しがついていました。それを引き出してみると、中に白鞘の長い刀が入っていました。真赤に錆びていたので、本阿弥平十郎に研ぎを頼みました。

平十郎が錆を落としてみると、佩き表に「備州長船住景光」と在銘、裏に「本多平八郎忠為所持之」、と金象嵌が入っていました。忠為とは忠刻の若いときの名前です。ところが、それを研ぎ上げない前に、つまり明治十五年七月十六日、平十郎が病死しました。それで養子の成善、のちの尋雅が研ぎ上げました。尾張屋はそれを岩崎家に納めました。現在も同家にあり、戦後、重要文化財になっています。

刃長二尺八寸五厘(約八五・〇センチ)、表裏に棒樋をかき流す。軟らか味のある小杢目肌に大肌がまじり、映り現れる。直刃調の刃文に、肩落ちの五の目や逆小乱れさまじる。中心は区送りして、目釘孔三個。

そのほか「篠剪り」と異名のついた了戒の刀も所持していました。

忠勝は青年時代、野太刀を遣っていました。それの鍔を、小田原の北条氏直の家臣・磯崎太郎左衛門広之が、天正三年(一五七五)九月入手しました。

直径四寸六分(約一三・九センチ)の丸で鉄地。車透しであるが、車輪が特に幅広で、そこに「うきよやいまわ満まるこっそりすく也」、の句が透しになっていた。この鍔は、広之の曽孫・六左衛門広長が、甲州代官・田嶋勘左衛門の娘養子となったので、以後、田嶋家に伝来、幕末に至った。

参考文献:日本刀大百科事典

【偉人の刀剣】堀部父子の刀

堀部父子の刀

赤穂義士堀部弥兵衛金丸と、その婚養子・安兵衛武庸所持の刀です。

1.弥兵衛の刀討ち入り後、細川家にお預け中、同家の堀内伝右衛門に、私は豊後高田の行長と重行の刀を持っている、と話したといいます。これは絶対に信じていいでしょう。

浅野家断絶後、江戸の本所相生町で、按摩を業としながら、吉良邸を窺っている時分、耳くじりの木刀に、「人切ればおれも死なねば成りませぬ そこで御無事な木刀をさす」、と書いたものを指していました。討ち入りの出がけに、家主に与えて去りました。それを市川相延が入手し、生涯これを腰にさしていました。柏延の死後、三代目団十郎の兄弟・和泉屋茶延の所蔵になっていたが、明和九年(一七七二)二月二十九日、江戸の大火のさい焼失したといいます。これも信じてよさそうです。

儒学や書道で知られた細井広沢は、堀部父子と親交がありました。弥兵衛から赤銅の弁をもらいました。義士討ち入り後、それに「堀部弥兵衛遺物」、と彫らせて愛蔵していました。表の図柄は流子とも、水仙ともいうが、判然としません。

安兵衛の妻と自称していた妙海尼は、父が討ち入りに出かける時、私が室内でつかうには槍の柄が長過ぎましょう、と注意したので、柄を短く切り詰めていった、と述べているが、妙海尼そのものがニセ者でした。堀内伝右衛門が義士の富森助右衛門から聞いたところでは、義士たちの間で、長屋のなかで闘うことを考えて、柄は九尺(約二七二・七センチ)ぐらいに縮めるがよい、と話し合っていたといいます。このほうが正しいです。 戦前、弥兵衛所持と称する「兼知」在銘の槍がありました。弥兵衛は泉岳寺に引きあげると、訪ねてきた従兄弟にあたる、京都の医者・寺井玄渓に、この槍をおくり、娘の今後を頼みました。玄渓は槍とともに、娘を親戚の寺井主水に預けました。主水の子孫から貫洞家、さらに大森家へと槍は流れ、明治三十九年、伊藤弥七の手に入ったといいます。しかし、弥兵衛の妻や娘は、奥州二本松の丹羽家に引き取られました。寺井主水の世話になったものではないから、この話は虚説です。

東京国立博物館にも、弥兵衛所持といわれる「文珠包久作」、と在銘の槍があるが、それを裏づける証拠はありません。なお、弥兵衛の差料について、大刀は菊一文字で二尺五寸(約七五・八センチ)、小刀は二尺一寸(約六三・六センチ)とか、大刀は無銘で三尺(約九〇・九センチ)とか、槍でなく薙刀を持っていたとか、諸説紛々であるが、いずれも信用できません。

2.安兵衛の刀

高田馬場の仇討ちの時の刀は、二尺六寸(約七八・八センチ)、濃州寿命の作でした。その時の脇差は「近江守法城寺橋正弘」と在銘、刃長一尺五寸(約四五・五センチ)、身幅一寸五分(約四・五センチ)の豪刀でした。

高田馬場の勇戦を賞して、剣術の師である馬庭念流の樋口十郎右衛門近晴が、備前守行の刀を贈った、という古文書があります。日付が貞享二年(一六八五)であるから、安兵衛はまだ十六歳の少年、宛名も「堀部安兵衛殿」とあるが、その時はまだ堀部家の養子になっていなかったから、この古文書は偽書でなければなりません。

討ち入りの時の差料として、刃長二尺五寸(約七五・八センチ)、重ね三分(約〇・九センチ)余の豪刀で、「和泉守藤原国貞」と初代国貞の在銘、裏に「丁卯秋堀内正春門人 堀部武庸二胴横断」、と金象嵌入りの刀がありました。明治になると、福地桜痴が秘蔵していて、『一刀流成田掛額』(『松田の仇討』)、という芝居にも登場していました。それを熊本出身の清田直が譲りうけ、さらに安兵衛の従兄弟の子孫・堀部直に割愛しました。

しかし金象嵌の「丁卯」は貞享四年(一六八七)、安兵衛十八歳の時で、まだ堀部家の養子になっていませんでした。金象嵌は後世のいたずらということになります。東京国立博物館に「康光」と在銘、「堀部武庸秘」と銀象嵌入り、刃長二尺五寸三分(約七六・七センチ)、刀身に切り込みのある刀があります。いかにも奮戦の跡を残しているようであるが、討ち入りの時の刀は大太刀で、こんな華奢な刀ではありませんでした。

安兵衛が討ち入りの直前、堀部文五郎に宛てた遺言状によれば、普段の差料・継平の刀は、佐藤条右衛門に贈っています。討ち入りのとき大太刀、つまり野太刀を使用したことは、安兵衛が討ち入り後、預けられた予州松山藩の波賀朝栄に、野太刀は、二尺三~五寸(約六九・七~七五・八センチ)ぐらいの刀の中心を継ぎ足して、薙刀のように切先から石突きまで、総長八尺(約二四二・四センチ)ぐらいにする、と説明していることからも明白です。

その大太刀は、剣術の師・堀内源太左衛門正春の創案にかかるもので、安兵衛は討ち入りの時、正春からそれを借りて行ったともいいます。安兵衛の親戚の家で、討ち入り後、間もなく描かせた、という画像がその家に伝来しているが、傍に大太刀が描かれています。しかし、それの作者についての記述を欠くので、さまざまな臆測や創作があります。継平説一・包□説・葵下坂説・肥前国忠吉説・近江大掾忠広説など、乱れとんでいます。

討ち入りの時の脇差については、刃長一尺三寸七分(約四一・五センチ)、直刃の無銘で、刀身に刃こぼれがありました。安兵衛の妻が仏門に入るとき、和尚が持ち込みを拒んだので、処分してしまったといいます。しかし、安兵衛の妻は丹羽家に引き取られ、仏門には入っていません。仏門に入ったのはニセモノの妙海尼であるから、この脇差も妙海尼同様、ニセモノのはずです。

参考文献:日本刀大百科事典