日本刀の世界 ~日本の様式美~

日本の伝統文化である日本刀の刀工・刀鍛冶、名刀、刀剣書籍など

【刀剣紹介】不動国行

不動国行

1.『享保名物帳』焼失之部所載、来国行作の小太刀、初め足利将軍家蔵でした。天文二十三年(一五五四)、狩野介が相州康春に模造させた刀銘には、「相州住康春作 不動国行之写 天文廿三年二月日 狩野介所持」とあります。狩野氏は伊豆国田方郡狩野郷の旧族で、本家は狩野介と称していました。それが相州小田原の康春に模造させているところをみると、当時はまだ足利将軍蔵ではなかったのかも知れません。

つぎに松永久秀所持といいます。永禄八年(一五六五)五月、将軍義輝を二条邸に襲って自殺させたとき、奪ったのでしょう。久秀が永禄十一年(一五六八)十月、織田信長の軍門に降った時、これと薬研藤四郎などを信長に献上しました。信長は天正五年(一五七七)の暮れ、三河まで鷹狩りに行くことになりました。

出発にあたり、安土城留守居役・菅屋長頼に対して、播州上月城を攻略した豊臣秀吉が、近く帰ってくるはず、来たら不動国行と乙御前とを与えよ、と命じました。それで秀吉が拝領した、という説があるが、それは誤りです。と言うのは、天正八年(一五八〇)二月二十日、堺の豪商・天王寺屋こと、津田宗及が京都において信長から見せてもらっているからです。

明智光秀が叛逆を起こした時、これは安土城にありました。信長を屠った光秀は六月五日、安土城に入り、信長が集めた名刀・名器を鑑賞し、居城の坂本城に運ばせました。これを明智弥平次(左馬助光春・秀満同人)に与えたともいいます。弥平次は光秀の横死を知ると、安土城を捨て、坂本城に立て籠もりました。 落城の時、弥平次は名宝が失われるのを惜しみ、不動国行・二字国俊・薬研藤四郎などを、夜具に包んで天主閣から、下にいる寄せ手に渡しました。ただし、渡したのは荒身国行・藤四郎吉光など、あるいは二尺七寸(約八一・八センチ)の国行・国俊・吉光など、とする異説もあります。

豊臣秀吉は信長の葬儀のため十月十三日、大徳寺に銭一万貫のほか、葬礼用として不動国行のほか、馬や鞍を納めました。そして十五日の葬礼のさい、不動国行は秀吉が捧持していました。葬式のすんだあと、不動国行は秀吉が取り返しました。それを秀頼に伝えた、とする説は誤りです。

秀頼が生まれる前、天正十二年(一五八四)四月、小牧の戦の講和のしるしとして、秀吉はこれを徳川家康に贈った、というが、それは誤りです。秀吉が柴田勝家を打ち破ったのを祝して、徳川家康が「初花」という名物の茶入れを贈ったのに応えて、天正十一年(一五八三) 八月六日、不動国行を津田左馬介に持たせ、家康に贈った、という説が正しいです。

前将軍秀忠は臨終に当たり、寛永九年(一六三二)正月二十三日、将軍家光に対して、本刀とともに江雪正宗・三好宗三左文字の三刀を譲りました。明暦三年(一六五七)正月、江戸城炎上のさい、本刀も焼けました。しかし、名物を廃棄するに忍びず、越前康継に焼き直させました。四代将軍家綱葬儀のさいは、堀田備中守が捧持して参列しました。

八代将軍吉宗は、筑前の黒田藩工・重包を呼びよせ、享保六年(一七二一)、これを模造させました。その後、紀州徳 川家が拝領していたが、明治二年七月、静岡在住の徳川家に対し、東京の紀州徳川家から返還してきました。

昭和十二年、重要美術品に認定。戦後は所在不明、韓国にあるともいう。刃長は一尺九寸九分(約六〇・三センチ)、ただし一尺九寸一分(約五七・九センチ)弱、一尺九寸四分八厘(約五九・〇センチ)、一尺九寸八分五厘(約六〇・一五センチ)などと、異説があるほか、相州康春の模造刀は、一尺九寸(約五七・六センチ)しかない。現存刀も一尺九寸三分五厘(約五八・六センチ)となっている。

佩き表には、鎺もとに櫃のなかに剣巻き竜の浮き彫り、裏には櫃のなかに滝不動の浮き彫りがあり、その上には表裏とも、棒樋に連れ樋をかく。こういう濃厚な彫物は、来国行の自身彫りではない。構図が不動正宗と同一だから、おそらく同一人の手になったものであろう。刃文は丁子乱れ、鋩子は尖って、やや長く返る。中心はうぶ、目釘孔は「国行」と二字銘の右肩と、中心先に各一個、計二個ある。彫物といい、出来といい、筆舌に尽しがたいとして、「天下一」という異称もある。

2.山中鹿之介幸盛の佩刀

天正六年(一五七八)七月、備中の阿井の渡しで、毛利方に謀殺された時、これを佩いていました。綿抜左馬介がそれを奪って、毛利輝元に差し出した、という説があるが、それは荒身国行の誤りです。

参考文献:日本刀大百科事典

【刀剣紹介】振分髪

振分髪

1.織田信長の差料

相州正宗の作、大磨り上げ無銘であるため、細川幽斎が、「くらべこし振分髪もかたすぎぬ 君ならずして誰かあぐべき」、という在原業平の歌から採って、名付けたものです。幕末には周防国岩国の吉川家に伝来していました。

刃長二尺九分(約六三・三センチ)、反り四分(約一・二センチ)。拵えは、白鮫の柄に、後藤祐乗作の赤銅の竜の目貫と、赤銅の縁をつけ、黒革で角頭を掛け巻きにする。切羽・鎺ともに金無場。鍔は鉄の無地。鞘は黒漆を厚くかける。笄・栗形は後藤祐乗の作で剣巻き竜となる。

2.伊達政宗の差料

奥州仙台藩主・伊達政宗に向かい、ある大名が、差料の脇差はさだめし相州正宗の作でごさろうな、と尋ねたところ、いかにも左様、と答えたが、実は正宗ではありませんでした。帰宅すると政宗は、次に見せてくれ、と言われたら嘘がばれるから、正宗の刀を磨り上げ、脇差にせよ、と命じました。家臣も刀鍛治も、諫止したが、聞き入れないので、止むをえず磨り上げました。その鍛治が在原業平の歌の意を採って、「振分髪」と命名した、という話があります。

しかし、伊達家の『御腰物方本帳』などを見ても、これはただ「正宗御脇指」とあるだけで、「振分髪」という異名は付いていません。そして「御代々御指之部」の最後に登録されています。これは政宗と関係のないことを示すものです。由来は一切書いてなくて、わずかに「竜ヶ崎上」とあります。竜ヶ崎とは現在の茨城県竜ヶ崎市のことで、ここに伊達家の飛び地が一万石あって、陣屋が置かれていました。「竜ヶ崎上」とは、その陣屋から、おそらくそこの代官が献上したものでしょう。

これには、安永七年(一七七八)五月三日付け、代金三百枚の折紙がついて います。おそらくそのころ献上したものでしょう。それで寛政元年(一七八九)五月、御刀奉行で調べた『剣槍秘録』には、記載されています。明治維新後、伊達の本家から、分家の伊達男爵家へ贈られました。大正九年ごろ、時の某大臣が、仙台城下の三十間堀あたりの質屋に入れたという戦後は細川貞松氏の所有となっています。

刃長一尺六寸八分(約五〇・九センチ)、表裏に棒樋をかく。地鉄は板目肌で、地沸えもつかず、映りも見えない。刃文は腰開きの五の目丁子乱れで、わずかに掃きかけを見るが、室町期の備前物らしい出来である。中心は大磨り上げ無銘で、目釘孔五個。銹色より見て、磨り上げの時期は幕末、折紙発行のころであろう。なお、切り取った中心先が現存し、「正宗」と偽銘があるという。

拵えはなるほど見事である。鎺や切羽は金無垢で、鎺には七子地、三階松の高彫りの上に、伊達家の引き両の紋が据えられている。縁頭は赤銅七子地に金玉縁をつけ、芦に鷹鷲の高彫り、金銀色絵の図となる。目貫は金無垢の三階松。柄は白鮫のうえを黒糸で巻く。鍔は赤銅七子地に、笹と雀を高彫り金色絵とする。小柄・笄は赤銅七子地に、唐松の高彫り金色絵、裏は金の割り継ぎ。鞘は呂色。小ガタナが文化(一八〇四)ごろの、藩工・騰雲子包寿の作になっているのは、拵えの製作が、そのころだったことを窺わせる。

参考文献:日本刀大百科事典

【刀剣紹介】豊後藤四郎

豊後藤四郎

享保名物帳』焼失之部所載、粟田口吉光作の短刀です。もと京都の醍醐寺門跡所蔵でした。同寺が庭園造築のさい、備前児島産の藤戸石が巨大すぎて、動かせなかった時、寛正三年(一四六二)十月以来、侍所所司代だった多賀豊後守高忠が、この脇差を抜いて指揮したところ、ようやく動かすことができました。高忠が藤四郎を拝領したのは、これより前か後かは明らかではありません。

織田信長が入手した経路は明らかではありません。本阿弥家から貞享三年(一六八六)秋、高忠の子孫である旗本の多賀新左衛門に照会したところ、昔のことで定かでないが、高忠の曽孫・信濃守貞能のとき、足利将軍へ献上したものであろう、との返事でした。すると、おそらく将軍義昭から、信長が拝領したのでしょう。そのほか、多賀家を出たあと、方々を転々としたあと、品川主馬が入手し、信長または徳川家康へ献上した、という異説もあります。品川主馬高覚とは、二百石取りの旗本であるが、元和二年(一六一六)の出生であるから、信長や家康に献上するはずはありません。主馬の父・新六郎高久でも、天正四年(一五七六)の出生であるから、信長への献上は無理です。

高久の父は、今川氏真です。永禄十一年(一五六八)、武田信玄徳川家康に攻められて没落、京都で浪居していたのを、豊臣秀吉が隣み、四百石を給していました。そんな関係で、信長は父義元の首を斬った怨敵ではあるが、同情を買う意味で秀吉を通じ、信長に献上したことは考えられます。 信長が天正十年(一五八二)、本能寺の煙となったあと、行方不明になったが、『文禄三年押形』に、中心の図を描き、「千貫」と注記してあります。なお、『本阿弥光徳刀絵図』にも、全身図が出ているから、豊臣秀吉の蔵刀だったこともあることになります。つぎに『本阿弥光柴押形』にも載っているが、それには「将軍様ニ有之」とあるから、徳川将軍家蔵になってからの押形です。

品川主馬より大御所様、つまり徳川家康へ献上品ともいうが、主馬は完康が没した元和二年(一六一六)の誕生であるから、それはあり得ないことです。そして、元和四年(一六一八)以前に、将軍秀忠の愛蔵刀になっていたことは、その年、本阿弥光甫がこれを研ぎ上げたところ、秀忠が大いに喜んだことでも、明らかです。

光甫がこれを「天下第一のぶんご藤四郎」と呼んでいるとおり、秀忠は数ある藤四郎のうち、これを最高としました。寛永九年(一六三二)正月二十三日、秀忠が臨終にのぞみ、将軍家光に譲ったのは、不動国行の太刀、江雪正宗の太刀、三好宗三左文字の刀とともに、これでした。

元和三年(一六一七)調べの刀剣台帳には、第一番に記載され、一ノ箱に保管してあったが、明暦三年(一六五七) 正月、江戸城炎上のさい焼失しました。それで享保四年(一七一九)にできた『名物帳』には、焼失之部に入れてあります。それより二年前(一七一七)、近江守継平が写した『継平押形』に、刃文が描き入れてあるのは不審です。古い押形本を見て、模写したものでしょう。

刃長九寸六分(約二九・一センチ)、平造り、行の棟。刃文は直刃で、鋩子は乱れ込んで尖り、返りはやや深いとも、乱れ刃で、鋩子は小丸ともいう。中心はうぶ、切り鑢、目釘孔一個、銘は「吉光」と二字。

参考文献:日本刀大百科事典

【刀剣紹介】藤丸

藤丸

1.名刀の名です。奥州の文寿の作です。ただし、膝丸の誤写の疑いもあります。

2.足利将軍義昭の差料です。

中身は、刃長九寸三分五厘(約二八・三センチ)、「備州長船兼光 延文二年七月日」と在銘。合口拵えの刻み鞘が金時絵となり、それに藤の花が銀の切金、葉が金粉または螺鈿となる。柄頭は金無垢、縁と鯉口は金沃懸け、目貫は金無垢の藤の葉、柄は細い藤巻き、栗形は銀無垢、鐺も銀無垢で、菖蒲革の犬招き付き、下げ緒は紫紐で、嫁袋付き。

幕末には大坂の商家・岡野家の所蔵でした。同家の由来書きによれば、藤鞘巻・九条兼光ともいい、もと南北朝期、九条経教の蔵刀を、足利義満今川了俊に命じて模造させたもので、経教は模造刀ができると、「藤丸のさやかにうつる小刀の やきはに波の立つ かとぞ見る」、という和歌を詠んで、義満に贈りました。岡野家の先祖・判官満則が、明徳二年(一三九一)十二月、京都内野の戦における褒美として、将軍義満より拝領、以後岡野家に伝来、ということになっています。それでは将軍義昭の差料、とする説と異なるが、それを傍証する資料を欠きます。

参考文献:日本刀大百科事典

【刀剣紹介】吉田山城来国光

吉田山城来国光

駿河御分物として尾州徳川家へ分与された脇差です。拵え付きで、金二十五両の折紙つきます。古田山城とは、茶人で、一万石の領主だった吉田織部正の子で、名は重嗣です。織部正が豊臣秀頼に内通していたとして、元和元年(一六一五)六月十一日、父とともに自尽せしめられ、資財も没収されました。この脇差も、そのときの没収品でしょう。そのほかに、駿河御分物のなかに、信国脇差がありました。これは山城守の献上、となっています。

参考文献:日本刀大百科事典

【刀剣紹介】不動宗近

不動宗近

三条宗近作の太刀です。越後国蒲原郡奥山庄(新潟県北蒲原郡中条町・黒川村)の豪族、城太郎貞重(貞成の誤り)は、黒川村館の不動尊に宗近の太刀を奉納しました。その子孫の城太郎資持(小太郎資盛の誤り)は、建治元年(一二七五)四月、中条の鳥坂城によって、幕府に叛旗を翻しました。五月、資持の伯母・板額御前の勇戦のかいなく落城しました。資持は宗近を申し下して、帯びていたが、敗死により行方不明となりました。『東鑑』にも、城氏の先祖・出羽城介繁盛が、狐から相伝した刀が、この戦で紛失した、とあります。 城氏敗走のあとに、和田義盛の孫・次郎左衛門尉義資が入国してきました。宗近の太刀はいつしか不動尊のもとに帰っていきました。義資は社殿を改築し、畑三段を寄進した代わりに、宗近を申し請け、不動丸と名付けました。

参考文献:日本刀大百科事典

【刀剣紹介】俘囚剣

俘囚剣

俘囚の帯びた剣、またはその様式の剣です。白河法皇が天治元年(一二二四)十月、紀州高野山行幸のさい、左衛門督藤原朝臣がこれを帯びていたので、人々に奇異の感を抱かせたといいます。奥州の安倍氏や平泉の藤原氏時代、領内の鍛治は、いわゆる俘囚鍛治です。そのうち、雄安や光長の刀は鎺の少し上から急に反り、その先は無反り、鎬は中程に寄り、中心は短く、かつ薄くて細い、と古剣書にあります。

この作風は、坂上田村麻呂の討伐で滅びた、悪路王の太刀として、平泉の中尊寺金色堂にある藤原氏三代の棺内から、元禄十二年(一六九九)に取り出されたものに似ています。悪路王の太刀は、柄に毛抜き形の透しがあって、いわゆる蕨手刀の形式になっています。俘囚剣は蕨手刀のように、毛抜き形の透しがあったのか、それとも古剣書の記述のように、透しはなかったのか明らかではありません。

参考文献:日本刀大百科事典