日本刀の世界 ~日本の様式美~

日本の伝統文化である日本刀の刀工・刀鍛冶、名刀、刀剣書籍など

【刀剣紹介】長谷川江

長谷川江

享保名物帳』所載、越中郷義弘作の短刀です。もと織田信長の一族・竹丸の父所持といいます。竹丸が竹千代信氏と同人でしたら、その父は信時、その母は信長の妹です。江州大津の城主・京極高次は、妹の松丸殿が豊臣秀吉の側室でした関係で、同じく側室の淀君をかつぐ石田三成と、対立関係にありました。そこに眼をつけた徳川家康は、石田三成決起のさいは、家康方につくよう密約をかわし、栗田日吉光の短刀を贈りました。高次はさらに石田三成の父・正継と従兄弟にあたる、美濃で一万石の領主・長谷川守知と、家康支持の密約をかわすことに成功し、その証拠に郷義弘の短刀を贈りました。守知は関ケ原合戦のさい、三成に加担すると見せかけ、三成の佐和山城に入りました。しかし、関ヶ原合戦の翌日、そのことが暴露し、佐和山城から脱走しました。守知の嗣子・正尚の妻は、溝口伯耆守宣勝の娘でした。その腹に子供がなかったため、正尚が正保元年(一六四四)に没すると、弟の守俊が家督を相続しました。その守俊は二年後に早世しました。嗣子がなかったため、お家断絶となりました。正尚の妻は止むなく郷義弘の短刀を抱いて、実家の溝口家へ帰ってきました。それでその短刀は長谷川江の名で、越後新発田城主・溝口家に伝来しました。 終戦後は行方不明になっていますが、長谷川守知は慶長十年(一六〇五)正月に、埋忠寿斎に命じて金具を作らせ、拵えを新調しました。本阿弥光柴も押形を取りました。代付けを光柴は、金三百枚と書いていますが、金百枚が正しいです。

押形によると、刃長は八寸(約二四・二センチ)で、真の棟、彫物はなかったが、その後差し裏に棒樋を彫っている。刃文は彎れ五の目乱れに、砂流しかかって賑やか。鋩子は沸え崩れる。棟焼きを大きく描いた古押形もあるが、後世消されたようである。中心は うぶ、目釘孔二個、無銘。

参考文献:日本刀大百科事典

写真:刀剣名物帳「長谷川江」

f:id:seiya3939:20171109184352j:plain

【刀剣紹介】松井江

松井江

享保名物帳』所載、越中郷義弘極めの刀です。細川幽斎・忠興の重臣で、豊後杵築城主・松井康之が所持していました。本刀が徳川家に入った事情は不明ですが、細川家が肥後に入国すると、康之の子・興長は八代城に入りました。それは八代城代ではなく、八代城主という資格で、幕府の直接命令によるものでした。そのため、代替りの際は、常に江戸城において、将軍より朱印状をもらっていました。すると、興長が寛永九年(一六三二)に八代城を与えられた時、この御礼として、将軍へ献上した公算が、もっとも大きいです。将軍家では、綱吉の息女・鶴姫が、紀州徳川家の世子・綱教へ降嫁することが決まりますと、本阿弥光常に命じて、貞享二年(一六八五)正月三日付で、金二百枚の折紙を書かせるとともに、中心に朱銘を入れさせました。そして同年三月六日、登城してきた綱教に、将軍綱吉は婿引き出として、本刀に「失判正宗」の脇差をそえて与えました。 以後、同家に伝来していましたが、昭和八年十一月、同家の売立において、二千三百九十円で落札されました。戦後、重要文化財に指定されました。

刃長は二尺二寸九分(約六九・四センチ)で、反り五分三厘(約一・六センチ)。杢目肌詰まり、地沸えのついた地鉄。 ただし鎬地は柾目肌。刃文は広直刃に足入り。もと賑やか、先は寂しくなり、物打ちは特に刃幅広くなる。小沸え出来で、匂い口締まる。棟焼きが多い。鋩子は小丸、返りは深い。中心は大磨り上げ、目釘孔一個。中心に古中心残る。佩き表に「義弘」裏に「本阿(花押)」と朱銘がある。

参考文献:日本刀大百科事典

写真:刀剣名物帳「松井江」

f:id:seiya3939:20171108191524j:plain

【刀剣紹介】鍋島江

鍋島江

享保名物帳』所載、越中郷義弘作の無銘刀です。初め肥前佐賀城主・鍋島直茂が所持していました。同家から埋忠家へきたので、押形を採っておきました。その後、同家から徳川家康に献上しました。おそらく慶長五年(一六〇〇)に、鍋島勝茂が献上した「小胸切り郷」と同一物でしょう。元和四年(一六一八)十一月、いわゆる駿河御分物として、尾州徳川家へ分与されました。その時の記録によると、横手下、三寸(約九・一センチ)ほどのところに、少し刃こぼれがありました。金七十五枚の折紙付きで、拵えは、縁は赤銅、目貫は金無拓で、二匹連れの獅子の図、鍔は赤銅、はばきは二重で、下は金着せ、上は金無拓、切羽とうずら目は金無拓。笄は裏くるみ、表は三匹連れの獅子の彫物。小柄は赤銅、水に貝の図だった。これを本阿弥光瑳も拝見しています。寛永十三年(一六三六)九月二十一日、将軍家光が尾州邸に臨んだとき、義直は来国光の短刀とともに、本刀を将軍へ献上しました。慶安四年(一六五一)六月十八日、家光の遺物として、四男徳松つまり後の将軍綱吉へ、本刀が与えられました。尾州家から直接、徳松へ進献とする説は誤りです。享保二年(一七一七)、近江守継平は将軍吉宗の許しをえ、将軍家の蔵刀の押形を採りました。その中に「鍋島郷」として掲載されているものは、目釘孔が二個もあって、まったく別物です。以後、将軍家の宝刀として伝来していましたが、明治二十年八月十日、山岡鉄舟の世話で明治天皇に献上しました。終戦後、国有となりました。

刃長は二尺二寸六分五厘(約六八・六センチ)で、本造り、庵棟。地鉄は、差し表は大板目肌流れ、肌立つが、裏は小杢目肌詰まる。刃文は彎れに五の目乱れまじり、小沸え豊かにつく。『享保名物帳』に、「平・鎬共、少々宛焼る」、とあるとおり、湯走りが数か所ある。差し表の鋩子は直刃で尖り、長く返るが、裏は『享保名物帳』に、「小切鋒、大出来」とあるとおり、乱れ込んで尖り、沸え崩れる。中心は大磨り上げで無銘、目釘孔一つ、先剣形となる。

参考文献:日本刀大百科事典

写真:刀剣名物帳「鍋島江」

f:id:seiya3939:20171108160855j:plain

【刀剣紹介】中川江

中川江

享保名物帳』所載、越中郷義弘極めの刀です。初め織田信長の長男・信忠の所持でした。それを一族の織田駿河守忠政へ与えました。忠政はのち中川八郎右衛門と改名、加賀の前田家臣となり、本刀を子の宗伴、孫の八郎右衛門へと伝えたといいます。駿河 守忠政については異説が多くあります。その弟は伊勢守忠勝といい、徳川の旗本でしたが、その系図では、中川と改名したは八郎「左」衛門重政となっています。加賀藩の記録によると、中川清六光重と称し、織田信忠に仕え、前田利家の娘・蕭姫と結婚しました。本能寺の変後、前田家に仕え、七尾城の守備を命じられました。武勲もたてましたが、茶の湯にこり、城の修築を怠ったかどにより、天正十七年(一五八九)に、能登の津向に流されました。それから豊臣秀吉にしばらく仕えたのち、また加賀に復帰しました。おそらくこの時、中川と改姓し、別人になりすまして復帰したのでしょう。 文禄三年(一五九四)に武蔵守となり、越中増山の守将となり、知行も二万三千石に上がりました。慶長十六年(一六一一) 隠退して、巨海斎宗半と称しました。同十九年(一六一四)没、五十三歳でした。信忠からこの刀を拝領し、中川と改姓した人物の伝記としては、以上の説が正しいです。

光重には男子がなかったが、弟の伊勢守忠勝は将軍家に仕え、宮内または八郎右衛門長勝という長男がいました。それを養子にもらいました。これが『享保名物帳』にいう宗伴です。これにも嗣子がなかったので、瀬川半兵衛の子・長種を養子にし、八郎右衛門を襲名させました。元禄十四年(一七〇一)に没しました。長種は禄五千石の大身でした。凝った拵えを付けたかったとみえ、愛刀家の津田長門守忠治に、それを依頼しました。まず反りを伏せ、当時流行の無反りの刀にし、それに拵えをつけて、長種は本刀を鷹狩りのときの差料にしました。当時の極めは筑前左文字になっていました。無銘ではありますが、左文字の標本として、目利きの会の鑑定刀にも出品されていました。しかし、無銘のため長種は本刀を重視せず、加賀出入りの本阿弥光甫に、本刀を売って、他の刀に買い替えたい、と売却を依頼しました。光甫は本刀を見て、これは郷義弘です。過分の折紙がつきます。売るのは止めなさい、と差し止め、反りをつけて研ぎ直し、百枚の折紙をつけました。長種はよほど嬉しかったとみえ、光甫が馬好きということを知っていたので、お礼に「鶍」、という名馬と、黄金十枚を贈りました。しかし、光甫はすでに前田利常から拝領の馬や、そのほかにも持っていたので、鶍と黄金九枚を長種に返し、黄金一枚だけもらいました。その話を、将軍秀忠がきいて召し上げました。その後、本刀を越前福井城主・松平忠直に与えました。忠直はさらに子の越後高田城主・光長に譲った、といいますが、それは誤りです。寛永六年(一六二九)十二月七日、光長の元服祝いに、 将軍家光より贈った、というのが正しいです。延宝四年(一六七六)、本阿弥家から五千貫の折紙を出しました。光長はいわゆる「越後騒動」の責任を問われ、天和元年(一六八一)、領地を没収され、伊予松山藩にお預けになりました。その時本刀を将軍家に献上した、というが、それは誤りです。どういう訳か、光長から、光長と二従兄弟にあたる越前福井城主・松平光通の家に伝わり、その子・昌親が、延室四年(一六七六)八月二十六日、隠居挨拶として、将軍へ献上したのが正しいです。 将軍家綱が延室八年(一六八〇)五月八日没すると、その遺物として、名古屋城主・徳川光友へ贈られました。光友の孫・吉通が正徳三年(一七一三)七月二十六日に没すると、その形見として将軍家へ献上されました。 以後、将軍家へ伝来しました。終戰後、德川家を出ました。

刃長は二尺二寸二分(約六七・三センチ)、もと二尺三寸四分(約七〇・九センチ)あったのを、磨り上げたようである。反り四分四厘(約一・三五センチ)、大板目肌、やや肌立ち、地沸えつく。刃文は沸え出来、浅い彎れに尖り刃まじり、二重刃もある。鋩子の差し表は焼き詰めであるが、裏が尖っているので、初めは左文字と極めたのであろう。中心は大磨り上げ、無銘。目釘孔二個。

参考文献:日本刀大百科事典

写真:刀剣名物帳「中川江」

f:id:seiya3939:20171108154808j:plain

【刀剣紹介】富田江

富田江

享保名物帳』所載、越中郷義弘作の太刀です。もと伊勢国安濃郡津の城主・富田左近将監知信の蔵刀、といいますが、加州前田家臣で、八百石を食んでいた富田左近の蔵力、という異説もあります。富田家から、堀左衛門督秀政が金十六枚で買いうけ、豊臣秀吉へ献上しました。秀吉は本刀を関白秀次に譲りました。再び秀吉へ献上、といいますが、秀次自尽ののち、秀吉が没収したものでしょう。 秀吉が没すると、その遺物として、加州金沢の前田利長へ贈られました。本刀を将軍秀忠に献上しておいたところ、寬永九年(一六三二)二月七日に、秀忠の遺物として、前田利常が拝領しました。以後、前田家に伝来し、昭和十一年、国宝に認定、今日に至ります。 寛永(一六二四)の初め、加賀本阿弥の光瑳が、金八百枚または二万貫の代付けを主張しましたが、本家の光室は、代は付けがたい、と言って折紙を出しませんでした。文化九年(一八一二)三月、本刀のお手入れをしたことのある本阿弥長根は『享保名物帳』を増補して、「天下一之江也」、と褒め上げていますが、これには疑問があります。

本阿弥本家の最後の当主・忠道の懐古談によれば、明治の初め、加賀本阿弥の俊蔵の案内で、前田家のお刀拝見にいったとき、入札鑑定をやりました。富田郷を忠道が二本目に当てたところ、俊蔵から叱られました。これはすべての出来が普通の郷義弘とは違っているので、光悦の時代から誰も言い当てるものがいませんでした。たいてい備前清光の目利きをしました。それをその方が言い当てたのは、刀の作風からではなく、前田家には富田郷があることを知っていての入札で、それは真の鑑定ではない、と俊蔵から叱られたといいます。備前清光にしか見えないものを、郷義弘の鑑定にしているのはおかしいです。光室が折紙を出さなかったのは、郷義弘という鑑定に承服しがたかったからでしょう。

刃長は二尺一寸四分(約六四・九センチ)。ただし、原寸はもっと長かったのを、前田利長がこの長さに磨り上 たものである。表裏に棒樋をかき通す。行の棟。地鉄は小板目肌詰まり、地沸えつくが、沸え粒が荒い。刃文は匂いの締まった直刃に五の目まじり、足や葉入る。鋩子は乱れ込んで、丸く返るが、表裏の形異なる。中心は大磨り上げ無銘。目釘孔二個。

参考文献:日本刀大百科事典

写真:刀剣名物帳「富田江」

f:id:seiya3939:20171108150453j:plain

【刀剣紹介】大垣正宗

大垣正宗

享保名物帳』でも、異本にのみ記載されているものです。「由緒不知」となっていますが、上杉家の記録によれば、大垣城主・戸田氏鉄が将軍秀忠に献上したもののため、この刀号が付せられました。金十五枚の折紙は、戸田家時代に付いたものでしょう。上杉景勝の子・弾正少弼定勝が、元和九年(一六二三)に 元服したとき、将軍秀忠より拝領しました。 明治成辰の役に、当時の藩主・上杉茂憲は、初め官軍に抗しましたので、官位を削られましたが、のちこれを帯びて鶴岡城攻めに参加した功により、襲封を許されました。現在は同家を出ています。

刃長は二尺一寸一分(約六三・九センチ)で、表裏に二筋樋をかく。地鉄は小板目、柾目もまじる。刃文は細直刃、刃縁ほつれ、二重刃も見える。中心は大磨り上げ、目釘孔二個、無銘。

参考文献:日本刀大百科事典

写真:刀剣名物帳「大垣正宗」

f:id:seiya3939:20171108144613j:plain

【刀剣紹介】観世正宗

 観世正宗

享保名物帳』所載の刀です。これは初め「森正宗」と呼ばれていました。その由来は不詳です。のち能楽観世流宗家七代・観世太夫元忠の所持でしたので、観世正宗と改称されました。元忠の号は宗雪でなく、宗節が正しいです。本刀を徳川家康が召し上げたのは、七代宗節または九代黒雪の時、といいます。黒雪は左近太夫忠親と称し、本阿弥光悦の書道の門人でもあったため、光悦から観世家の正宗のことを聞き、家康は召し上げたのでしょう。観世家の所伝では黒雪が死去したとき、家康はそれを惜しみ、世阿弥の『花伝書』を献上するよう命じたので、いっしょに正宗も献上した、といいますが、それは誤伝です。黒雪の死去は寛永三年(一六二六)、つまり家康死後です。また『花伝書』を献上したのは、六代元広の次男・観世十郎太夫だからです。十郎太夫は病弱なため、宗家を継がず、駿河にゆき家康に仕えていました。それで「験河観世太夫」と呼ばれていた人です。将軍秀忠の長女千姫、つまり天樹院が元和二年(一六一六)九月、本多中務大輔忠刻に再嫁するとき、本刀を婚引出としましたが、忠刻は寛永三年 (一六二六)五月七日、三十一歳で早世しました。それでその遺物として将軍家へ 献上しました。ところが、「埋忠銘鑑」見ると「毛利殿すり上 寿斎かなぐ仕申候 酒讃岐殿ニ有之」とあります。また同書寿斎本にも「酒讃岐殿に有之 無利にすり上 寿斎金具仕候」とあります。

「酒讃岐殿」とは、幕府の老職・酒井讃岐守忠勝のことでしょう。おそらく本多忠刻の祖父忠勝と、酒井忠勝を混同したものでしょう。 本阿弥家の記録には、本多忠勝が天樹院入興のとき拝領し、のち将軍家へ献上していたものを、忠勝の嫡子・忠政が元服のとき、再拝領したとありますが、それは誤りです。松平光長寛永六年(一六二九)十二月七日、元服のさい前将軍・秀忠から本刀を拝領しました。光長は越後高田城主で、大村加トの主君に当たりますので、本刀を拝見したことがあるとみえ、自著『剣力秘宝』に、切先の図を載せ、さらに光長から将軍家綱に差しあげたところ、返礼として判金五百枚を下された、と附記しています。しかし四百枚が正しいようで、時期は寛文三、四年(一六六三〜四)ごろとも、寛文三年(一六六三) ともいいます。元禄十年(一六九七) 十二月十二日、将軍綱吉が甲府中納言・綱豊の館に臨んだとき、本刀を綱豊に与えました。綱豊はのちの将軍家宣ですので、以後、将軍家の蔵力となりました。『継平押形』に、観世正宗として「正宗」と金象嵌入りの刀の押形を掲げていますが、これは将軍家『御腰物台帳』に「二五 象嵌銘正宗 御力 長二尺四寸」とあるものと混同したものです。明治維新後、徳川家から有栖川宮織仁親王に献上しました。同家を相続した高松宮家に戦後までありましたが、現在は国が買い上げています。代付けは本多家にあるころ千貫、万治三年(一六六〇)に三千貫、その後二百枚にふえ、さらに『享保名物帳』には、七千貫または三百五十枚と記載されています。

刃長二尺一寸三分(約六四・五センチ)で、鍋造り、表裏に棒樋をかき、その中に、佩き表は楚字と剣巻き竜、裏は楚字と素剣を浮き彫りにする。ただし大磨り上げであるため、彫物は中心に隠れている。地鉄は板目肌つまり、大肌をまじえ、地沸え厚くつく。刃文は五の目乱れで腰開き、砂流し・ほつれ・湯走りなどを見る。鋩子は掃掛け火炎頭となる。中心は大磨り上げ無銘。目釘孔二個別。

参考文献:日本刀大百科事典

写真:刀剣名物帳「観世正宗」

f:id:seiya3939:20171104190934j:plain